海外版DVDを見てみた 第28回 マルセル・レルビエのサイレント映画 Text by 吉田広明
『人でなしの女』ポスター

『人でなしの女』ヒロインの家の外観

『人でなしの女』広間

『人でなしの女』「何か」とは何だろう

『人でなしの女』のラボとフェルナン・レジェ

『人でなしの女』蛇に噛まれたヒロインを助けようとする主人公
『人でなしの女』
『エル・ドラドオ』がドキュメンタリー的な部分を持つメロドラマだったのに対し、こちらもメロドラマではあるが、SF的な設定、何よりセットが人工的で、前作とかなり印象が異なる。レルビエは繰り返しを好まなかったと言うが、実際一作一作だいぶ違う(無論共通する主題もあるけれど)。

とある屋敷(その外観が、模型で示されるのだが、直線と矩形で形作られた、完全なるアール・デコ。セット・デザインはカヴァルカンティの他、クロード・オータン=ララ――彼もレルビエ作品に参加することで映画キャリアを始めている――、著名なアール・デコのロベール・マレ=ステヴァン、キュビスムの画家フェルナン・レジェが行っているが、この外観デザインはマレ=ステヴァン以外の何物でもない)で、パーティが開かれている。主催者は著名な女性歌手クレール(ジョージェット・ルブラン)。その客間セットがまた物凄い。中央にプールがあり、その真ん中に広間がしつらえられ(あるいは広間の周りを掘割が巡らされてある、というべきか。掘割には白鳥が泳いでいる)、橋が架けられて広間に渡ることになる。広間は、始めは舞台に使われ、そこで黒人が燃える棒を口に入れる大道芸を披露したりし、演芸が終わるとそこにテーブルが並べられ、食事が供される。広大な客間全体は、俯瞰、時に真上から捉えられるのだが、カメラが、到底一人一人が見分けられない高みにあり、セットの巨大さを感じさせる(このセット・デザインはカヴァルカンティによるもの。同様の巨大な広間の俯瞰が、格段のレベルアップによって徹底的に行われるのが後述する『金』である。ただし『金』にはカヴァルカンティは参加していない)。

 そのパーティに青年エンジニア、エナール・ノルセン(ジャック・カトラン)は遅れてやってくるが、幾人もの男たちに求愛されながらも、「何か自分を引き留めるようなことがなければ、世界一周の旅にでも出る」というクレールの言葉に、彼女を愛している彼はショックを受ける。「何か」という言葉がノルセンの頭の上に浮かび、ピントが外れ、また戻る。クレールに行かないでくれと歎願するが拒絶、嘲笑までされ、ならば死んでやる、と夜の道を無蓋のスポーツカーで疾走、車上のノルセン、車輪、道、脇の森などの激しいモンタージュ(ガンスのモンタージュを思わせる)。車は崖で大きくカーブを切り、下の河に墜落する。クレールはその後開いたリサイタルで、エンジニアを死に至らしめたと非難されるが、その場に現れた初老の男に案内され、ノルセンの住居に連れていかれる。そこに死体らしきものが載ったベッドがあり、それを見たクレールは苦悶、初めて「人間らしい苦しみ」を感じるが、そこに死んだはずのノルセンが現れ、彼女をラボに連れてゆく。このラボのデザインは、もうまるでフェルナン・レジェの画そのまま。巨大な振り子、クランク、パイプが重なり合い、しかしどこか人間的な温かさ、柔らかさも感じさせる。そこでノルセンが見せたのは、今ここでしゃべる声を全世界に即時に伝え、また全世界の映像をその場のスクリーンに映し出すという新発明。要するにラジオとテレビだが、それを使ってノルセンは、クレールの歌を発信し、それを聞く世界中の聴衆の様子をクレールに見せる。興奮したクレールは、これこそ自分が探し求めていた「何か」なのだと知り、かつノルセンを愛している自分を発見する。世界一周から「自分を引き留めてくれる何か」とは、無論まずは「愛」であるわけだが、実際に行かずとも、世界一周できる遠隔通信装置のことでもあったわけである。同様に題名『人でなしの女』の「人でなし」もまた、クレールの性格の冷たさのことでもあり、同時に超人間的な世界に惹かれる、という意味でもあるというダブル・ミーニング。実際、彼女は人間的世界を超越する。死から生還するのである。彼女とノルセンの関係に嫉妬したインドの王が、毒蛇で彼女を殺す。ノルセンは、まだ実際に試していなかった機械を使って、彼女を死から呼び戻す(その場面も素早いモンタージュが使用される)のである。

 ヒロインのジョージェット・ルブランはアメリカ人で、一部出資もし、アメリカ配給も彼女が行った。ヒロインが男を殺したと騒ぎになるリサイタル場面はエキストラを動員して行われたが、その現場にはエリック・サティ、パブロ・ピカソ、マン・レイ、レオン・ブルム、ジェームス・ジョイス、エズラ・パウンドら当時の前衛芸術、前衛文学を代表する錚々たる面々がいたのだと、典拠を示しつつウィキペディアは書いているが、本当なのだろうか。オリジナルの音楽はダリウス・ミヨーが書いているようだが、筆者が見た版(非正規版、正規版は現在のところ発売されていない。ちなみに今回取り上げる四作の内、これだけはかつて見ていて、確か竹橋に在った頃のフィルムセンターだったように記憶しているのだが)にはミヨーの音楽はついていない。