海外版DVDを見てみた 第25回 ウィリアム・グリーヴスの『テイク・ワン』 Text by 吉田広明
シネマ・ヴェリテ『テイク・ワン』
しかし一方でこの映画には、シネマ・ヴェリテとしての側面もある。シネマ・ヴェリテとは、それが作られていることを意識させないハリウッド古典主義的な娯楽映画やドキュメンタリー映画に対し、カメラの存在をあえて見る者に意識させる手法のドキュメンタリー本稿第4回第5回参照)であり、数台のカメラで、撮っているスタッフ自体を撮る、という本作は、確かにシネマ・ヴェリテと言える。シネマ・ヴェリテはフランスの人類学者ジャン・ルーシュらによって始められ、カナダでその影響下にダイレクト・シネマが興ることになるが、そのカナダ国立映画製作庁にグリーヴスはいたことがある。ここで一応グリーヴスのキャリアを述べておくと、俳優としてアクターズ・スタジオに入ったが、紋切型の黒人の役しか来ないことに幻滅、カナダの国立映画製作庁に入り、そこで撮影、編集、演出を学ぶ。ちょうどダイレクト・シネマの頃である。公民権運動盛んな60年代にアメリカに戻ると、いくつかのドキュメンタリーを経て、国立教育テレビで黒人のためのニュース・ショー番組『ブラック・ジャーナル』を手掛け、これによりエミー賞を受賞することになるのだが、本作は、その『ブラック・ジャーナル』直前に撮られていたことになる。

本作の正式な題名は『シンビオサイコタクシプラズム テイク・ワン』と言い、シンビオタクシプラズムは、アメリカの社会学者アーサー・ベントリーが唱えた学説で、環境と人間の相互影響を指すらしいのだが、グリーヴスはそこにサイコ(心理)を付け加える。ともあれ、撮影現場という環境が、一群の人間の心理にどのような相互影響を及ぼすかを捉える、ということなのではあるだろう。それはカメラ自体を意識させることで、被写体にどのような影響が生じるのかを捉えようとするシネマ・ヴェリテの方向性と一致する。被写体とはこの場合、キャストばかりではなく、スタッフ、そして監督をも含むクルー全体である。彼らの間にどのような心理的環境が生まれ、それがまた各個人にどのようにフィードバックされてゆくか、その運動そのものが映画の主題なのであって、俳優によって演じられている芝居そのものではない。実際、監督自身もこれをリハーサル、カメラ・テストと述べており、ほとんど同じ場面を繰り返し繰り返し演じさせていて、話が一向に前に進まない。従って先に「映画作りを舞台にしたコメディ」と述べたが、この映画ではそもそも「映画作品」を作ろうとしていないのだから、その言い方は間違いだということになる。トリュフォーの『アメリカの夜』や、森﨑東の『ロケーション』、神代辰巳の『黒薔薇昇天』のようなものではないわけだ。

では、演じられている芝居自体は何の意味もないかというとそうでもない。この男女が何で喧嘩しているかといえば、夫が明らかにホモと分かる男性と目配せを交わした、あなたはホモだ、ということで喧嘩をしている。きっかけはそこなのだが、妻は日ごろのうっぷんをぶちまけ始める。時期が来るまで子供を作らないと言って何度も何度も私に中絶させて。最近セックスをしたときは、もうレイプされているような気分だった、云々。ここに、男性が妻を性的に搾取している男性優位社会への批判、同性愛への偏見に対する批判、を見るのは確かに行きすぎだろう。しかし社会の中にある無意識的な性への意識をあぶりだそうとしている、とは言えなくもない。それはスタッフの発言にも表れてきて、特に音声のジョナサンは、監督批判をするからといって、これは作品を「レイプ」するわけじゃない、と述べるのだし、また台詞が直截的であるべきだと批判する場面でも、どこかマッチョな性意識を垣間見せてしまう。スタッフもまた、撮られている内容に影響されている。監督が「あのオッパイを撮れ」というのも、自分をノロマに見せつつ、スタッフを巧みに挑発していたのかもしれない。冒頭で監督が三台目のカメラは「セクシュアリティ」に関することを全て撮る、と言っていたのはあながち嘘でもなかったのかも知れないのである。

この映画が集団によって作られている、という事実も重要だろう。監督が全権を握ってすべてを仕切っているわけではなく、現場で何が起こるか分からないし、スタッフからどういう反応があるかも(そこに多少の誘導はあるとしても)分からない。この作品は、偶然性と集団性に大きく依拠して作られた映画なのだ。この作品が68年に作られているという事実を思い合わせると、それも頷ける気はする。ゴダールはこの年の『ワン・プラス・ワン』を境に個人名で映画を撮ることを止め、匿名集団ジガ・ヴェルトフ集団としての映画製作の乗り出そうとしていた。この作品の60年代映画としての特質について筆者は、その他の60年代映画と比較検討してその意義を語ることはできないが、この映画が時代の産物であることは疑いえない。

かくして、この映画はシネマ・ヴェリテであり、実験映画であり、60年代的な革新の気風に満ちた作品であったわけだが、しかしどうもそのような側面をまともに取るのもどうなのか、という印象は残るのだ。端的に言えば、この映画は見て面白い。グリーヴスがこの映画を撮る際に、高尚なことを様々考えていたことは確かなのだろう。DVDのパンフレットに、彼がこの映画を作る際に受けた影響を箇条書きにしていて、その中にはリー・ストラスバーグの演技論、スタニスラフスキー・システム、エイゼンシュテインの映画論に加え、熱力学第二法則(いわゆるエントロピー法則)、ハイゼンベルクの不確定性原理、インテグラル・ヨーガの創始者オーロビンドの神秘主義などが挙げられている。しかし、だから何なのだ、とも思うのだ。監督がこのような名前を挙げているからと言って、我々がそれに見る目を拘束されねばならないわけでもない。我々はこれを楽しい映画として見てならないことにはなるまいと思う。そのような背景を抜きに、単にコメディとしてこの映画を見ること、それが今現在この映画を見る観客としての特権だろう。