海外版DVDを見てみた 第25回 ウィリアム・グリーヴスの『テイク・ワン』 Text by 吉田広明
ウィリアム・グリーヴス
今回はウィリアム・グリーヴスの『テイク・ワン』(とその続編『テイク・ツー 1/2』)を取り上げる。この作品は1968年に撮られながら71年まで公開されず、それ以後も特殊上映でしか上映されないままであったが、それを見た人たちの間ではカルト的な存在になっていた。サンダンス映画祭でその上映を見た俳優スティーヴ・ブシェミが関心を抱き、友人のスティーヴン・ソダーバーグと共に、『テイク・ワン』の配給と続編への出資をすることになって『テイク・ツー』(2003)ができたという経緯になる。筆者は実のところこのような作品が存在することすら全く知らなかったのだが、友人の映画監督が、今年(2013年)招かれて行った海外の実験映画祭で見てきて「むちゃくちゃ面白かった」と言うのだった。またその際、既にクライテリオンからDVDが出ているということも知り(2006年)、慌てて取り寄せて見てみたわけなのだが、見てみてなるほどこれは面白いし、またそれが抱えている時代背景も興味深いものがあったのである。

コメディ『テイク・ワン』
『テイク・ワン』のスプリット・スクリーン

『テイク・ワン』二人の俳優とグリーヴス監督

『テイク・ワン』ミュージカルで演出しようとする監督
映画は、崩壊寸前の夫婦が公園内を口論しながら歩き回る様子を捉えることで始まる。いくつかのカットを経て、画面が二つに分かれる(スプリット・スクリーンだ)と、同じような内容を話しているのだが、夫婦が前のショットと違っている。また一つの画面に戻ったかと思うと、また夫婦が別の人たちに変わっている。これは映画の撮影で、俳優たちを変えて別テイクを撮っているのかと気が付き始めた頃、群れている人たちが映り、それがどうも映画のスタッフであり、音声トラブルがあったようだと分かってくる。マイクが反響(フィードバック)を起こしているようなのだが、そのテルミンのような電子音が大きくなり、そこに音楽が重なってきて、タイトルが現れる、という導入部である。

タイトルが明けて、監督と思しき黒人男性が、この映画の仕組みを説明する。崩壊寸前の夫婦を演じる二人の役者を撮るカメラと、その撮影模様を撮るカメラと、さらにその全体を捉え、現場で起きることで面白いことは何でも撮るカメラ、その三台を同時に回す、というのだ。これは映画を撮るスタッフを撮るスタッフを撮るという二重のメタ映画であり、被写体と撮るものの関係をそのまま画面に収めるシネマ・ヴェリテの方法で撮られたドキュメンタリーであると一応は言うことができる。一応、と留保をつけたのは、ドキュメンタリーにしては面白すぎるからで、例えば監督の説明後、撮影が再開されると、三台のカメラが撮っている映像がスプリット・スクリーンで同時に映し出されるのだが、その三つともカメラを担いだクルーが映りこんでいて、これには見ている誰もが突っ込みを入れたくなるだろう。実際その後撮影を止めた監督は、君たちはこっち側に来るな、と指示しているのだが、いかにも遅い。芝居がいい具合に進行してきているところに気まずそうに監督が入ってきて、「ゴメン、フィルムが切れたので…」という辺りも爆笑ものだ。監督はその後も思い付きでミュージカル風に演出して見たりしてスタッフを困惑させたりする。台詞を俳優たちが抑揚をつけて発話するのだが、正直いってとても見てはいられない。スタッフの一人は「(あんたが教えていた)アクターズ・スタジオではこんな風にやるのかね」といい、「どう思う」と監督に聞かれたまた別のスタッフは「それが知りたかったらスタッフをパンしてみれば分かるよ」、その通りスタッフの間をパンするカメラは、彼らのうんざりしたような顔を捉えるのである。

『テイク・ワン』監督を批判するスタッフ会議
映画は、監督抜きで話し合っているスタッフを映し出す。話の主導権を握るのは製作のボブと、音声のジョナサン。ボブは、監督にこれはどんな映画なんだと聞いても、質問以上に曖昧な答えしか返ってこない。聞かない方が良かったと思うくらいだ、と監督を厳しく非難し、ジョナサンは、いや、これはオープン・エンドな、ノン・ディレクション映画なんだという。全く新しい方法で撮られた新しい映画として擁護しているようでもあるが、逆に、監督がだらしないので僕らが映画を主導すべき、と言っているようにも取れる。こうした話し合いは何度か行われ、スタッフの監督批判は次第にエスカレートしてゆく。セリフが下らない、夫婦げんかにしたって、エドワード・オールビーの『誰がヴァージニア・ウルフなんかこわくない』みたいな立派な台詞が書けるのにとボブ。ジョナサンはそれに対し、人間は生まれついてから紋切型を身に付けさせられて、こういう時にすら、紋切型を繰り返すしかないんだ、と、むしろそれこそがリアルな人間のありようなのだと擁護するかに見える。しかしこの映画のほぼ最後の方の、これは監督も交えての、撮影合間の休憩時の話し合いのような場でジョナサンは、この映画のセリフはまだるっこしい、もっと直截的に言うべきなんだ、と監督に向かってまくしたて、監督もタジタジとする。無論こうしたスタッフ間の話し合いも、監督がそれを撮るように指示し、スタッフも監督がそれを後に編集時に見ることをあらかじめ承知の上で行われているもので、スタッフがカメラ=監督に向かって話すようなところもある。

こうしたスタッフの監督批判も、どこか笑えるのは、監督=グリーヴスのキャラクターに負う所が大きい気がする。始めの方で、三つのカメラをどう使うかを説明している場面でグリーヴスは、三つめのカメラは俳優の演技、スタッフ、それから現場に生じる「セクシュアリティ」に関するすべてを捉えるのだとして、「例えばほら、あそこにおっぱいが来るだろ、あれを映すんだ」と、乗馬してこちらに向かってくる恰幅のいい女性のゆさゆさと揺れる胸を指さす。スタッフに何か言われて、「本気にするなよ」と言い訳するのも情けないグリーヴスは、先述したミュージカル演出も含め、どこまで本気だか分からないようなところがあり、それがスタッフの苛立ちを増幅させるわけだが、スタッフの苛立ちが決定的な決裂に至らないのは、やはりグリーヴスの憎めないキャラによる(これはもう見てもらうより仕方がないのだが、グリーヴスの顔には、人を決定的に武装解除させるようなところがあるのだ)。最初のスタッフ・ミーティングで監督が批判されている音声がオフで流れ、現場の監督の姿が映像では映る場面があり、監督の飄々とした、ノンシャランな、無邪気に俳優たちと会話を楽しんでいる様子はいかにもバカっぽい(無論その編集の意図が観客に見え見えであることも含めて笑える)。映画は、また違う俳優(今度は女性が黒人になっている)を使って、また始めから撮影が再開されようとしているところで終わるのだが、そこにも冒頭と同じフィードバック音が鳴り、「テイク・ツー 近日公開」の文字が大きくなってくる。また元の木阿弥という脱力感、本気なのか冗談なのか分からない続編予告。これはオフ・ビートなコメディの感覚そのものというべく、全編見終わると、映画作りを舞台としたコメディを見た、という印象なのである。