海外版DVDを見てみた 第22回 バッド・ベティカーのフィルム・ノワール Text by 吉田広明
『暗黒街の帝王 レッグス・ダイアモンド』日本版ポスター
『暗黒街の帝王 レッグス・ダイアモンド』
ラナウン・サイクルの西部劇最後の作品『コマンチ・ステーション』(60)と前後して公開された本作は、ギャング映画としてはベティカー唯一の作品。二十年代のニューヨークに実在したギャングの一生。「レッグス」の渾名は、ダンスがうまいから(本作でも、ダンスのインストラクターとダンス・コンテストで、優勝候補を陥れて、ではあるが優勝するという場面がある)とも、逃げ足が速いから、とも言われている。いずれにせよ、一介の泥棒だった彼が、暗黒街の帝王に上り詰め、そして失脚する様を、あっけないまでのスピードで描く。といっても前述したように上映時間は100分あるのだが、スピードが速く感じられるのは、映画の持っているリズムによるものだろう。

例えば、冒頭レッグスは宝石店からネックレスを盗むのだが、成功に得々として「俺は刑務所になんか行かない」と豪語するレッグスのショットの次は、刑務所にいるレッグスになり、さらに、面会に来たダンスのインストラクターに泣きべそかきながら、「刑務所は嫌だ、俺にはダンスしかないんだ」と訴えている場面の後は、クラブで踊っている彼のショットにつながれる(クラブでダンサーとして働きつつ、機会を狙っている)。レッグスは、仕えていたボスの死後(ボスは別のギャングに殺されたことになっていて、しかもそれは画面にすら現れない、いつの間にかいなくなっているので、この展開も急、というか雑、なのだが、この映画の場合むしろそれが味になっている)、彼がボスとなって、手下どもから上がりを吸い取ることになるのだが、今や妻?となったダンスのインストラクターに乞われてヨーロッパを旅行中、映画館のニュースで、暗黒街の現状を知る(アル中になった彼女を療養方々連れていったヨーロッパの各都市で、何をしたいかと聞くと映画を見たいというので、どこにいっても結局映画館に行くだけなのだ。まあ、これも海外ロケなど不可能な低予算作品であるからだが、各都市の風景一枚挟んだのみ、後はニュース映像の言語を変えておくだけ、というその簡素さが、速度として、荒唐無稽さとして、かえって強い印象を残すのだ)。さて、そのニュース映像の中で、密造酒の工場は手入れされ、アル・カポネは有罪判決を受け、自分の手下どもも逮捕される。これを見て焦ったレッグスは帰国、すると暗黒街は既にシンジケートに支配されている。ギャングのボスたちがとある一室で会議を開いているところにレッグスがやってくる。お前たちのボスは俺だ、というレッグスを、もうあんたの時代じゃない、と、議長をしていた男がせせら笑う。映画を見ているうちに時代が変わってしまった、という浦島太郎的な急展開にあっけに取られるが、この議長をしている男に名前がない、というのも凄い。他のメンバーはいちいち名前を紹介されているのだが、この男はレッグスに「じゃあお前は誰なんだ」と名前を聞かれても黙ったまま、うっすら笑みを浮かべているだけなのだ。暗黒街は、強烈な個性を持ったカリスマ的指導者が牛耳る時代ではない、ということをこれほど雄弁に(あるいは寡黙に)語ることができようか。

『レッグス・ダイアモンド』死んだ三人の俯瞰

『レッグス・ダイアモンド』映画館の二人 右がカレン・スティール
無論、こうした素早い展開は、説得的な画面によって裏打ちされている。全編、二十年代へのノスタルジアなどかけらもない、乾ききったモノクロ画面。二十年代を意識して、カメラの動きも、極端なアングルも一切使わなかった、という簡潔極まりない画面構成(ついでに言えば、撮影は『殺し屋は放たれた』からの付き合いであるリュシアン・バラードで、レッグスの弟役を演じたウォーレン・オーツともども、後にサム・ペキンパー組となる。二人は、ベティカーとペキンパーをつなぐ輪のような役割を果たしている)。有名な一場面がある。レッグスが、ボスの用心棒だった男と遂に敵対する。この男は、始めは彼を馬鹿にしてかかり、しかしボスがレッグスを気に入ってからは、逆に何かとレッグスに後れを取って、彼を恨んでいるのだ。レッグスはこれから行く、と予告電話をかけておく。すると男は、待ち伏せするべく仲間二人を路上に配置する。男の部屋はアパートの四階ほどなのだが、レッグスが電話をかけていたのは実は隣のアパートの同じ階。窓辺を伝って男の部屋に窓から侵入、下の仲間に告げようと窓辺に出たその男を突き落とし(落ちるところは映さないまま)、続けざまに男のライフルを手に取って路上の二人を撃つ。カメラは俯瞰で路上に倒れた三人を軽く捉え、その画面がそのまま新聞の一面になってその場面は終わる。この俯瞰が凄い。死んだ虫けらでも見下ろすような感情を欠いた画面。しかもこれは夜ではなく、真昼の出来事だ。夜であれば漂っていたであろう湿った抒情も、あるいはギャングの人生の空しさといった余分な情感も感じさせる暇もなく、要するに名場面だという感銘も与えることはないままに、この場面はあまりにもそっけなく終わってしまうのである。

演出自体は乾ききっているものの、別な意味では湿り切った映画であるのも本作の面白いところで、本作でレッグスの情婦となる女性を演じたカレン・スティールと、ベティカーは当時恋愛関係にあり、この映画におけるレッグスと彼女の関係に、ベティカーは自分たちの関係の多くを投影していたという(ベルトラン・タヴェルニエ『アメリカの友人』所収、ベティカーとの手紙インタビュー)。ベティカーとスティールは本作の撮影を最後に別れることになるが、本作のラストで、スティールが言う「多くの人が彼を愛したけど、彼は誰も愛さなかった。だから死んだのよ」というセリフは従って意味深いものがある。とは言えベティカーは、リュシアン・バラードが紹介してくれた女優デブラ・パジェットとすぐ再婚し、『アルーザ』撮影のためにメキシコへ発つことになるのだが。

ここまで、ここ数年で見られるようになったノワール作品を紹介してきたが、ベティカーの西部劇についてすら、現在日本語文献としては蓮實重彦氏の「七の奇跡」(『映画 誘惑のエクリチュール』ちくま文庫所収)くらいしか見当たらない現状であり、ましてそのノワールに特化して書かれたものは管見するところないようだ(映画祭の資料が充実しているイタリアやスペインではどうか分からないが、アメリカ、フランスにおいてすら存在しない)。この稿は、論考というよりは紹介に過ぎないが、ノワール作家としてのベティカー評価のきっかけになってくれればとは思う。ともあれ、ノワール、西部劇、闘牛関連作品を含むベティカーの全体像が明らかになるのはまだまだ猶予が必要であるようだ。


『ミステリアスな一夜』One mysterious night と『消えた陪審員』The Missing juror、『霧の中の逃走』Escape in the fogはColumbia choice collectionから、『殺し屋は放たれた』Killer is looseはMGM limited edition collectionから、『暗黒街の帝王 レッグス・ダイアモンド』The Rise and fall of Legs DiamondはWarner ArchivesからそれぞれDVD-Rで発売。『閉ざされた扉の陰』Behind locked doorsはKino VideoからDVDが発売されている。それぞれ字幕なし。リージョンはフリー。