ロンドンとリリアン・ギッシュ Text by 大塚真琴   第3回 ロンドンⅢ
フェイ・レイ
フェイ・レイとりんごの花
その後、ケヴィンは『結婚行進曲』の準備で忙しくなっていたはずなのに、オフィスに来ていいよと言ってくれて、私はコーヒーを飲みながら本を読ませてもらった。イタリアの映画祭はどうだった?と聞かれて、私はケヴィンのまわりにいつもすごい取り巻きができていたことを思い出した。あまりにも取り巻きがいるので、私は遠慮して近くに行かなかったのである。ケヴィンはとても有名な人なんだなあと遠い人のように思い、リリアン・ギッシュの『アンニー・ローリー』(27)が観られてよかったと答えた。映画はそんなにいいと思わなかったけど、カラーの場面があったのだ。その日はケヴィンはずっと地下で仕事をしていたので、私は机がたくさんあるオフィスで夕方まで一人でずっとシュトロハイムの本を読んでいた。

『結婚行進曲』はロンドンのサドラーズ・ウェルズというオペラハウスでカール・デイヴィス指揮のオーケストラの演奏つきで上映された。私はフレッドがくれたフェイ・レイの自伝を持って行った。もし会えたらという一抹の望みを持っていたのである。全編ソフト・フォーカスで輝いているこの映画の中で、夢のように咲き乱れるりんごの花がとても印象的だった。シュトロハイムらしく、身分違いの恋の残酷さ、決められた相手との結婚などが描かれてゆく。兵隊の行進の場面がカラーだった。そうして、フェイ・レイは本当に舞台挨拶にやってきたのである。ボディガードに支えられて、ゆったりとしたきらきらした黒のドレスに身を包んだフェイ・レイは明るくエネルギッシュで、老いてもなお若い頃の面影を彷彿とさせた。女優というのは何歳になっても女優なのだと思った。9時半頃に映画が終わり、11時半頃、人が殆ど帰った後でケヴィンが呼びに来てくれて、フェイ・レイのところへ連れて行ってくれた。自伝にサインをしてもらった。サインのお礼と映画が素晴らしかったと言うのが精いっぱいだった。黒いコートをはおったフェイ・レイは体はよわよわしくても声はものすごく力強く元気そうだった。

それからしばらくして、ケヴィンがお家に呼んでくれた。今日は有名なプロデューサーの息子さんで1923年のウィリアム・ボーディンの映画に子役として(当時9歳だった)出演したこともあるという人がチェスター・フランクリンの映画を観にくるということだった。この人は後に本なども書いているそうだ。
その人は、やって来るとジャケットも脱がずに椅子に座り、映画を一本観終わると、あっという間に帰って行った。ケヴィンに小さな頃最初に観たのがアルフレッド・E・グリーンのグリーンなんとかという映画だったとかいろいろ話していたけれど、知らない人の名前ばかりで私にはさっぱりわからなかった。

シュトロハイムの『結婚行進曲』には最初からテクニカラーの場面というのはあったのだそうだ(2色)。その当時は無声映画の一部にカラーを入れたりするのが客の好奇心をひくので流行っていたらしい。シュトロハイムは『グリード』のフィルムに手で色をつけたりしていたそうだ。
『結婚行進曲』のりんごの花、きれいだったと言うと、りんごの花が見たい?と聞くので、私は驚いて信じられない気持ちになった。ケヴィンはビニール袋にくるまれた、りんごの花を持って来てくれたのだ。木の枝に黒のワイヤーでくくりつけるようにして作られていたりんごの花。糸と黄色いおしべとめしべ、白いワックスの花びら。映画が作られてから70年が経って色がややしなびた花になってきてしまっていたけれど、思いのほか小さな花びらを見て、これが幾千となく頭上に咲き乱れていて、ライトがあたっていたら、スタジオはどんなに美しかっただろうと思った。映画の中でシュトロハイムがかぶっていた黒い帽子も見せてくれた。意外と小さかった。