コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 Jフィルム・ノワール覚書⑫ 東映ノワール 『白い崖』を検証する   Text by 木全公彦
「死の接吻」について
改めて原作「死の接吻」について書いておく。
「ローズマリーの赤ちゃん」「ブラジルから来た少年」など、小説家としては寡作ながら映画化された作品も多いアイラ・レヴィンのデビュー作。彼が23歳のときに書かれた長篇ミステリ/スリラー小説である。

主人公は貧しい生まれの苦学生でありながら、美貌と才覚に恵まれた野心溢れる若い青年。財産目当てで製鉄業を営む富豪を父に持つ娘に接近するが、都合が悪くなると彼女を殺し、自殺にみせかけると、今度はその姉たちを歯牙にかけていく。物語は彼が獲物とする三姉妹の名前を冠した「ドロシイ」「エレン」「マリオン」と3つの章立てに分かれていて、それぞれに語りの視点が異なっているのが特徴的。

第1章の「ドロシイ」では、同じ大学に通う恋人の末娘が妊娠してしまったため、彼女の父親に勘当されることを畏れた青年が恋人を殺し、自殺に偽装するまでを描く。主人公=青年の視点から物語を追う倒叙スタイルで展開し、主人公の名前が明らかにされないため、次の第2章の「エレン」で、叙述のスタイルを変えて、妹の自殺を疑った次姉の視点から、事件を探り、容疑者を絞りこんでいくところが、読者も真犯人が分からないためスリリングに展開する。次いで第3章の「マリオン」では、恋の経験のないウブな長姉を青年が罠にかける様子がロマンチックに描写され、一転して計画が破綻して破滅へと向かう様子がサスペンスたっぷりに描かれる。

歯切れのいい渇いた文体とモンタージュを思わせる短い描写のリズムカルな積み重ねは、一見すると映画向きだが、倒叙スタイルは映像では到底表現できず、視点の移動もないため、そこは魅力半減。さらに次々と三姉妹を歯牙にかけていくというのは映画ではダレてしまうため、二度の映画化のいずれも姉妹の人数を一人減らして二人にしている。そこはちょっと物足らない。

原作に登場する野心が強く目的のためには手段を選ばない冷徹非情でアモラルな主人公の人物像は、ドライサーの「アメリカの悲劇」の階級格差を強調した社会性や情緒的な描写に比べると、遥かにデーモニッシュで、どこか大藪春彦の出世作「野獣死すべし」の主人公・伊達邦彦も連想させる。この大藪の原作は東宝で二度映画化されていて、その最初の映画化は東宝ノワールの重要作である。それについてはいずれ書くつもり。

映像化は前記した2度の映画化のほか、日本では1971年にフジテレビ『おんなの劇場』で全4回、黒沢年男、紀比呂子、三國連太郎、鰐渕晴子の出演でドラマになっている。題名は原作と同じ『死の接吻』。実は筆者が最初に接したのはこのドラマだった。まだ小学生だったけれども、毎週どうなるかとワクワクして見て、のちにスタンダールの「赤と黒」や石川達三の「青春の蹉跌」などを読み、うまく換骨奪胎したなあと思った記憶がある。それは勘違いで翻訳ミステリのドラマ化だったのだ。脚本は石堂淑朗。