コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 Jフィルム・ノワール覚書⑫ 東映ノワール 『白い崖』を検証する   Text by 木全公彦
赤か白か
その一度は流れた話が再び今井正作品として浮上するのは、1959年のことである。企画者は本田延三郎。戦後演劇史・映画史に大きな足跡を残したプロデューサーである。戦前は新協劇団で活躍し、戦後は俳優座のマネージメントを経て、青年俳優クラブ(後に劇団青俳)の設立に参画。青年俳優クラブと八木プロが提携した『日の果て』(1954年、山本薩夫監督)から映画にも関わるようになり、1954年東映とユニット契約した青俳とともに東映の契約プロデューサーになり、『米』以降は今井正作品と深く関わるようになる。その関係は今井が東映から離れて撮った『婉という女』(1971年)、『あゝ声なき友』(1972年)、『子育てごっこ』(1979年)まで続くことになる。

『白い崖』の「企画」に本田と並んでクレジットされている若槻繁は、文芸プロダクションにんじんくらぶの社長兼マネージャー。本田が有馬稲子の出演を要請したため、そのマネージメントしてクレジットされているだけで、あくまで企画の主導は本田と今井である。脚本はこれが東映初仕事の菊島隆三。主役の木村功、有馬稲子の出演はすでに決まっているので、アテ書きである。

菊島隆三の証言。
「はじめ本田、今井両氏から相談をうけたのは、アイラ・レビンの『死の接吻』というミステリの脚色だった。しかしどうしてもというのでなく、もし僕の方に面白い材料があればそれでもいいということだった。『死の接吻』を読んでみると、いちばん面白いところが、映画にならないし、だいちアメリカを舞台にしなければ、設定自体にリアリティが出ない。そこで、前からあたためていたストオリイを話したところ、ぜひということになってこの作品が生れた。要するに押売りみたいなものである。だが、この種の押売りを敢てしないとオリジナル作品はなかなか生れない」(菊島隆三「「崖」雑感~「キネマ旬報」1959年10月上旬号」、註:掲載シナリオ・タイトルは『崖』)

ところが次の証言は同じ菊島隆三によるものだが、少し異なっている。
「ストーリイをたてていると、どうしても『陽のあたる場所』に似てきてしまう。しかしそこを逃げてしまうと、物語がなりたたない。ええい、いうやつにはいわせておけ、と居直ってやっと書き上げたのを思いだす。そのときしみじみ思ったことは、こうしたサスペンスものとか、推理ものとかは、特別な才能をもった作家でないと書けないもので、ぼくなどは生涯せいぜい三本くらいだろうということだった。/封切り間際に、ある洋画の輸入会社が、たしかイタリヤ映画だと記憶しているが、それに『赤い崖』という日本題名をつけて、ひと足さきに公開した。しかも、そちらが本家本元であるかのような宣伝をした。勿論内容はまったくの別の三流作品だったが、ぼくとしてはずいぶん不愉快な思いをした。その会社へ乗り込んで、社長の謝罪文をとったが、いったん流布されたことはなかなか消えるものではないものと思い知らされた」(「菊島隆三自作を語る」~「菊島隆三シナリオ選集 月報Ⅱ」(サンレンティ、1984年)

ちなみに『赤い崖』はイタリア映画ではなく、アイラ・レヴィンの小説「死の接吻」を映画化した1956年のアメリカ映画である。ゲルト・オスワルド監督、ロバート・ワグナー、ジョアン・ウッドワード、ヴァージニア・リース、ジェフリー・ハンターの出演。You tubeに転がっていたので見てみたが、原作にあったサスペンスが後退し、ロバート・ワグナーは薄っぺらな色悪であんまり頭がキレるとは思えないし、ウッドワードの達者ぶりだけが目を引く凡作だった。

リメイクは『死の接吻』(1991年、ジェームズ・ディアデン監督、マット・ディロン、ショーン・ヤング[二役]、ダイアン・ラッド出演)。ミスキャストと雑な脚本で前作以上に無残な出来。二役を演じたショーン・ヤングはゴールデン・ラズベリー賞を受賞している。

ところでウェブ上も含めて紙資料でさえも、今井正の『白い崖』の原作はアイラ・レヴィンの「死の接吻」という記述が散見されるが、少なくとも本篇クレジットにはレヴィンの名はない。菊島隆三の前記二つの証言には矛盾があるが、レヴィン原作の『赤い崖』の公開日から勘案して、日本映画のプログラム・ピクチュアによくある“イタダキ”とも違うように思われる。

双葉十三郎による公開当時の『赤い崖』評が「死の接吻」(ハヤカワ文庫)の解説に再録されていたが、これがいちばん正しいと思われる。
「原作はアイラ・レヴィンの有名な『死の接吻』で、翻訳が評判になり今井正監督が映画にしようとしたら、ひと足お先にアメリカで映画になっていたので権利がとれず、仕方なく似た話をこしらえて『白い崖』という題名にしたら、ひと足お先のほうが『赤い崖』という題名をつけてひと足お先に封切りすることになった、といきさつを知って見物すれば興趣ひとしおである」(「漫画読本」1960年3月号)

おそらく本田延三郎と今井正は、当初レヴィンの「死の接吻」を東映で映画化しようとしたのだろう。今井がレヴィンの原作に惹かれたのは、後述する小説の叙述スタイルの斬新さや功利主義的なアプレゲールの完全犯罪に興味があったわけではなく、そこに貧しい青年の野心と悲劇を描いたドライサーの「アメリカの悲劇」の現代版を見たからだ。だから原作の権利がとれないと分かった段階で、レヴィンの原作から距離をとってドライサーに近付けようとしたのではないだろうか。なにしろもともと今井は高峰秀子主演で日本版『陽のあたる場所』を撮ろうと企てたことがあったのだから。