コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 Jフィルム・ノワール覚書⑦ 『警視庁物語』の時代 その1   Text by 木全公彦
セミドキュ・スタイルのJフィルム・ノワールは、1950年代初頭に隆盛を迎えるが、独立プロがブームを牽引したことからでも分かるように、そのほとんどは、スターを使わずにロケで製作できるという特質を利用した、低予算で即製の、いわゆるB級映画ばかりだった。ところがこのジャンルが胚胎していた可能性は、東映東京撮影所(大泉)で大きく花開くことになった。

東映ノワール前史
1951年4月1日、東横映画、太泉映画、東京映画配給の3社が合併して東映が設立される。初代社長には3社の親会社である東急電鉄の大川博が就任する。「合併による新会社設立は、経営の行き詰まりから崩壊寸前であった3社の再建が目的である」(「クロニクル東映」Ⅱ 1947-1991、東映、1992年)と社史に書かれているように、巨額の負債を抱えての出発であった。

『獄門島』ポスター

『死の追跡』ポスター

DVD『ひめゆりの塔』
東映はその前身である東横時代からフィルム・ノワールならぬギャング映画やミステリ/サスペンス映画をたくさん製作してきた歴史があった。これは占領下において、GHQ/SCAP(連合軍最高司令官司令部)のCIE(民間情報教育局)の検閲によって、時代劇は内容や本数に制限があったため、刀によるチャンバラをピストルによる銃撃戦に置き換えたギャング映画やミステリ映画がその代用品として製作されたことに起因する。松田定次(監督)、比佐芳武(脚本)、片岡千恵蔵(主演)トリオによる『三本指の男』(1947年)、『獄門島』(1949年)などの横溝正史もの、千恵蔵の移籍に伴って大映の人気シリーズを受け継いだ多羅尾伴内もの、“にっぽんGメン”ものなどがそれだが、それらは荒唐無稽でたわいない時代劇的現代アクション映画だった。

東映が発足した年の1951年8月8日、邦画5社は社長会議で時代劇の製作本数制限の撤廃に合意、即時実施し、時代劇のスタッフやスターを抱える東映の追い風になった。1954年、東映は他社に先駆けて全プロ配給を開始。フィーチャー作品に中篇作品を組み合せて併映する方針を打ち出し、“東映娯楽版”をスタートさせ、大成功を収める。その勢いに乗り、京都撮影所で製作される時代劇が圧倒的な強みをみせて、創立5周年にあたる1956年、東映は配収で他社を圧倒し首位に躍り出る。

京都撮影所が製作する時代劇が快進撃を続ける一方で、東映東京撮影所でも荒唐無稽な推理ものやギャング映画の中からリアルな犯罪映画やミステリ/サスペンス映画が製作されるようになってきた。私見ではその萌芽は『霧の夜の兇弾』(1952年、杉江敏男監督)や『死の追跡』(1953年、鈴木英夫監督)あたりにあると思うが、両作とも現時点では未見であるため断言は避けたい。ただ東映ノワールの始まりが、東映子飼いの監督でなく、他社(東宝)の監督が作った作品であるかもしれないという、とりあえずの仮説は提出しておきたい。

そんなとき、東映東京製作の『ひめゆりの塔』(1953年、今井正監督)が大ヒットする。この成功は青息吐息で出発した東映を立ち直らせただけでなく、その後の躍進にも大きく貢献した。また今井正がもたらしたリアリズム描写は、特に東映東京の若手監督や若いスタッフに大きな影響を与えた。『ひめゆりの塔』の監督補佐は村山新治、その下に島津昇一、小西通雄と助監督の名前が続く。進行助手は佐藤肇。これらはいずれも『警視庁物語』シリーズを担当することになる監督たちである。彼らは今井正や関川秀雄らの左翼系の監督が持ち込んだ、綿密で写実的な描写に基づくリアリズムを、セミドキュ・スタイルに結びつけて、その大きな成果である『警視庁物語』を超ロング・シリーズに育てていく。そしてこのスタイルがその後の東映ノワールの性格を決定づけた。