コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 豊島啓が語る三隅研次   Text by 木全公彦
細かいカット割
――三隅さんとはそのときが初めてだったわけですね。

豊島そうです。もちろん面識はありましたけど、仕事を一緒にするのは初めてです。

――三隅さんは映像京都から勝プロへという形ですね。

豊島そうなりますね。大映が倒産した段階で、西岡(善信)さんとか森田(富士郎)さんとかが中心になって映像京都を作られて、まあ僕らも誘われたんですけどもね。組合に入っていたし、まだ若かったから撮影所の労働争議がどんなもんか体験してみたいという好奇心があったもので。

――そうか。映像京都というのは大映倒産前に立ち上げて、若いスタッフに声をかけていったんですね。

豊島あのときは、ちょっと差別的な言い方になりますけど、いわゆる「マチバ」というか、フリーでやっているスタッフというのがそんなにいかなかったんです。だから映画にしろテレビにしろ、恒常的に人手が足らない状態でした。僕が1980年に大映を辞めたときも、すぐに助監督をやってくれと電話がかかってきましたからね。ギャラは大映で最後にもらった給料の倍はありました。松竹京都というのが大映と違って、その当時はコマーシャルぐらいしかやっていなかった。『必殺』シリーズも始まっていない頃です。『三途の川の乳母車』では松尾嘉代さんの演じた柳生鞘香の道場のセットがひどくってね。大映なら「エンコ」というんですけど、板の間にワックスを塗って、それをモップで擦り、タワシで擦って、それを3回ぐらいやるとピカピカに光るんです。そこで必要なら汚しをかける。ところが松竹京都の場合は、擦ると剥げてくるんですよ。美術の内藤さんも困って「なんちゅうセットや」「ここの塗料はひどい」と言って。あの映画を今、ビデオやDVDでちゃんと見直したら、そのあたりはちょっと大映京都とは比べもんにならん安っぽい美術になっているのはそういうところです。

――とくに60年代の後半からフィルムの感度があがりますから、あまり安っぽいとかえってよく分かってしまいますよね。

豊島『子連れ狼』シリーズのときは、劇画の映画化ということで割り切って撮っていました。あれは1時間半なかったですよね。1時間20何分とかですね。それで1,000カット近くありますよ。かなり細かい。ただそれは当然のことながら、劇画タッチということで、若山富三郎さんの顔のアップや刀の鯉口を切るアップ、刀に手をかけるカット、刀を抜く瞬間のカットと、細切れのカットをうまく繋いで作っている。


『子連れ狼 三途の川の乳母車』

内藤昭と「映画美術の情念」
――それはシリーズなんで第1作の『子連れ狼 子を貸し腕貸しつかまつる』(72)を引き継いでいるわけですよね。

豊島あれの冒頭なんかは『斬る』(62)に近い、ちょっと様式美というか、三隅美学が残っていたと思うんですが、『三途の川の乳母車』になると、もっとデフォルメされて、シリーズ後半になると荒唐無稽な内容に合わせてどんどん劇画チックになっていく。

――それはプロデューサーでもある若山さんの意向ですか? それとも三隅さんの演出意図なんですか?

豊島僕の記憶している限りでは、三隅さんは自分の意見は言わなかったと思います。三隅さんのフィルモグラフィを見てもらえば分かるように、その頃には若い頃のようなかつての作品のように様式的な美学の追求とか実験精神とかは失せていたような気がします。でも手は抜いていませんよ。粘っていましたから、相変わらず。僕が伝え聞いている伝説の粘り方、つまり溝口健二がコンテができていない時間稼ぎとして、美術に難癖をつけたというような話ですよね。そういうのが三隅さんにもありました。大五郎が井戸に落ちて、井戸の底から「ちゃん」というカットですが、突然オープンに「井戸を作れ」と言い出したんですよ。内藤さんがまたそれを承知して、井戸を作るまで3時間4時間撮影は中止です。それだけのカットのためにわざわざ井戸なんか作ることなんかないんですよ。あれはコンテができていなかったんで時間稼ぎだったんだ、とラッシュを見て気がつきました。

――中抜きはされるんですか。

豊島ほとんどしない。牧浦さんが僕に「君、分かるか。“おっさん(三隅)、全セット、アングル変えるんや”と言っている」というんです。そういわれてみれば、すべてアングルが変わっている。切り返しにしても普通の切り返しじゃなくて、ちょっと斜めに入ったりしている。だから中抜きするような撮り方ではないんですね。というのもセットがあまりよくなかったから、そういうプランにしたんでしょう。大映のちゃんとしたセットだったら、中抜きで撮ってもカットバックが繋がりますから。大映の美術監督がよく怒るのは、「こんな立派なセットを組んだのに、あの監督はそれを生かして撮っていない」ということなんです。