映画の中のジャズ、ジャズの中の映画 Text by 上島春彦
第64回 人間国宝ジャズ 山本邦山追悼 その2
原信夫とシャープス&フラッツ「日本のニュー・ジャズ」
ニュー・ジャズ・イン・ジャパン
さて「ニューポートのシャープス・アンド・フラッツ」の翌年、原信夫は続けて新作をリリース。こちらはタイトルも堂々「日本のニュー・ジャズ」“New Jazz in Japan”(日本コロムビア)である。編曲も続けて前田憲男。そこで取り上げた楽曲をまずもれなく書き写しておく。「茶切節」「さくらさくら」「黒田節」「ドンパン節」「六段くずし」「三階節」「五ッ木の子守唄」「官軍マーチ」「田原坂」「木やりくずし」の全十曲、そしてその全てに邦山が尺八ソロイストとしてフィーチャーされている。民謡、俗曲、わらべ歌等のトラディショナル・ソングのジャズ化をコンセプトにして、これを「ニュー・ジャズ」と謳う。明らかにニューポートの展開形であり、ここにこそ原のいわば「時代への宣言」があるのに気づかれよう。今回も本多俊夫がライナーを担当している。

“日本のジャズといえるものが、たしかに生れた”と感じはじめたのは、あれは何時頃の事だったろう? かなり前のような気もするし、又、つい昨日のような気もする。(略)それを明確な事実として確認したのは、昨年(1967)度のニューポート・ジャズ・フェスティバルに於いてであった。(略)日本人に認識されるより以前に、アメリカ人の間で確認され、むしろ逆輸入の如き形で、日本での認識を新たにしているという事実は、まことに皮肉である。一つの問題を提起しよう。山本邦山をフィーチャーした演奏の仲に、一曲だけ、あちら製ジャズがあった。ニューポートで演奏したレパートリーの中では、あちらの曲はこれだけである。その曲は、ボビー・ティモンズの“ソー・タイアード”。私は、この曲が演奏された時の意外な、というより妙な反応を示したアメリカの聴衆を忘れる事が出来ない。はっきりいって、それ迄、日本の曲を続けて演奏して来た間の緊張感、深い関心、そして音への陶酔、といった雰囲気が、ほっと、一度に緩んでしまったように感じられた。そして、再び日本の曲が演奏されると、前と同じように引締まった空気が流れ始めたのだった。演奏当事者である処の原信夫も、山本邦山も、ステージの上でその空気を敏感に感じとったという。

本多のライナーはまだまだ続くのだが、引用するのはこのくらいにしておこう。興味ある方は現物を当たっていただきたい。原とアメリカ行を共にしたいわば共犯者、並走者だからこそ書けた名ライナーである。
尺八で奏される「ソー・タイアード」がアメリカの聴衆には一種の「御愛嬌」であり、あくまで「みだれ」のデュオローグや「梅ヶ枝の手水鉢」のグルーヴ感覚こそが日本から届けられた最上のジャズ体験であったと認識されたこと、ところが日本では全く逆の反応が起こり、「ソー・タイアード」に拍手が多くなってしまう現状。日本人のジャズ理解への憤り、といってしまうと言葉が強すぎるのだがとりあえずそう書いてしまうしかない。その憤りがこの新作アルバムを生んだのだ。もちろん「日本民謡を唄う/弘田三枝子」は既に63年に発表されていたわけで、原のチャレンジングな企画は前田憲男という有能なブレインの好編曲を介することでいとも楽々と達成されてはいる。つまり「チャレンジング」とすら思わせない程度に楽々と。「三階節」は「ニューヨークのミコ」には収録されていないがジャズフェスではピアノ・トリオをバックに唄われたというから、やはりここでも邦山とミコちゃんの二重映しという現象は起きていたのであろう。

白木秀雄クインテット&スリー琴ガールズ「さくらさくら」
ここに選ばれた曲の中に「さくらさくら」があることから、もう一枚「ニュー・ジャズ・イン・ジャパン」的なアルバムをここに紹介するきっかけが出来た。ドイツ(当時西ドイツ)のジャズ・レーベルSABA(後のMPS)から発売の「さくらさくら/白木秀雄クインテット&スリー琴ガールズ」“Sakura Sakura”(MPS。発売ユニバーサルミュージック)だ。実は、この作品はトランペットに日野皓正が起用されていることからそっちを強調した別タイトルでリリースされていたこともあるが、近年この正式タイトルでCD化された。全曲紹介しておくので以後間違ってレコードを二度買いしないこと。「さくらさくら」「よさこい節」「山中節」「祭りの幻想」「アローン・アローン・アンド・アローン」「諏訪」の全六曲となる。どうして白木グループがドイツのレーベルからアルバムを出したのか。こちらもライナーノーツ(若杉実のCD盤)から引用しておこう。

和の古典をレパートリーとする異色のSABA盤は、名プロデューサー、ヨアヒム・E・ベーレントのアイディアによって生まれたという。このアルバムが吹き込まれた65年は、“ベルリン・アート・フェスティヴァル”において日本がテーマに選ばれた。そこでベーレントが協会に提案したのが、日本人による日本のジャズ。結果、3人の琴奏者を含む編成でのジャズ・セットを“ベルリン・ジャズ・フェスティヴァル”のステージに送り込むことに決定(日本人の参加は初めて)。演奏は初日トップを飾り、翌日の新聞には他の出演者を出し抜き大きく扱われるほど高い評価を得ている。

ニューポートのジョージ・ウェインのような役割をベーレントがベルリンで果たしていることが分かる。
ライナーによるとベーレントは、本アルバムに別バージョンで収録されている「祭りの幻想」のそれ以前の音源を聴いてこのライヴの企画を思いついたものらしい。58年の「ジャズ・フェスティヴァル・オブ・ジャパン第2集」(東芝)がこの曲の初出らしいのだが、一般的に有名なのは61年のアルバム・タイトルになっている「祭りの幻想」“Hideo Shiraki in Fiesta”(テイチク)の方だろう。近年CDになったからだ。「ジャズ批評」誌2006年3月号「和ジャズ1950-70」のアルバム紹介を読むと「文字通り幻想的な琴のイントロ。続いて白木のスティックを合図にメンバー一丸で爆発的にスウィングしていくさま…。何度聴いてもシビレさせられる」と記している当の塙耕記がテイチクに復刻企画を持ち込んだ本人とのこと。ベーレントが聴いたのがどちらのバージョンだったのかは分からない。ともあれ、本アルバム中に日本的な旋律と構成が取られているのはこのタイトル曲だけである。日本におけるニュー・ジャズ、その先鋒的役割を務める立場にあった白木秀雄の輝きを象徴するかのようなジャケットも楽しい。
「さくらさくら」が共通しているからといって、原が白木グループの方針をヒントにしてこれらの既述アルバムを制作したとは限らないが、ただし、弘田三枝子、原信夫、前田憲男、山屋清、白木秀雄といった日本の60年代初頭上り調子だったジャズマン、ウーマンが時を同じくして日本のニュー・ジャズに日本の民謡、古謡、俗謡を用いることを意識的に始めたとは言える。もちろん日本製のメロディをジャズにするという発想自体は、日本にジャズが入ってきた最初からある。ところがそのメロディを単なる身近な素材メロディとしてではなく、民族音楽として対象化しつつ最新鋭のジャズにダイレクトにぶつける、という発想はまさに60年代という時代ならではのものであった。

山本邦山の尺八がその過程で発見されたのも偶然というより必然だったのだ。(続く)