映画の中のジャズ、ジャズの中の映画 Text by 上島春彦
第64回 人間国宝ジャズ 山本邦山追悼 その2
弘田三枝子「ニューヨークのミコ」
ニューポートから駆けあがっていった人々
ところでニューポート・ジャズフェスで日本人が脚光を浴びたのは、シャープス・アンド・フラッツが最初ではない。1956年、57年(第3、4回)ピアニスト穐吉敏子もバークリー音楽院留学時に自身のトリオで出ているし、何より評判になったのは原に先立つこと二年、65年に弘田三枝子がビリー・テイラー・トリオのゲスト・ヴォーカリストとして出演していることだ。この時もライヴ録音は為されなかったものの、同じトリオでニューヨーク・レコーディングが改めて行われアルバム「ニューヨークのミコ」“Miko in New York”(日本コロムビア)を残す。
この快挙のおかげで彼女は翌年、雑誌スイングジャーナルの人気投票「女性歌手」部門でトップに立った。しかし「シャープス・アンド・フラッツ物語」にはこうもある。「若いのに研究熱心で、そのダイナミックな発声と英語の扱いが国内では彼女をトップクラスのジャズ歌手と評価させたが、本場アメリカでは少し違っていた。優秀には違いなかったが、少々場違いなポップス歌手と映ったらしいことが、観客の反応からうかがえた。」言うまでもないがこれは著者長門の感想ではなく、原信夫の主観である。

弘田三枝子「日本民謡を唄う」
彼は要するに、どうせなら、わざわざ日本人が不慣れな英語で勝負を賭けなくても日本語、日本情緒、日本歌曲でいけば良かったのに、と考えたのだ。そうすればもっと評判を呼んだに決まっている、と。この読みは鋭い。実はこれはただの「たられば」「ないものねだり」ではない。弘田は既に63年、民謡のジャズ化「日本民謡を唄う/弘田三枝子」(東芝)を成功させていたからだ。そのアレンジャーが前田憲男で、伴奏は宮間利之とニューハード・オーケストラだった。「おてもやん」「串本節」などおなじみのトラディショナル・ソングを、ビッグ・バンドをバックに唄いまくる十代の弘田は今聴いてこそ凄い。というか、ずっと凄いのに変わりはないのだがレコードはずうっと廃盤になっていて、近年突然CD化された。それを聴いて改めて皆ひっくり返った、という意味だ。
原の証言が残されているわけではないが、このアルバム・コンセプトが今回の原のプレゼンの基幹にあったと推測するのは意味のないことではない。もともと山本邦山の起用にも原はゲスト・ヴォーカリスト的なスタンスを求めていたのだし。いわば弘田のアルバムから歌手の役割を邦山に替え、伴奏も自身に替え、音楽的コンセプトをさらに広い範囲の邦楽に仕立てたのが67年ニューポート・ジャズフェスにおけるシャープス・アンド・フラッツの演奏であった、と見て良い。
またこの決断には64年に日本で開催された「世界ジャズフェスティヴァル」で「対抗バンド合戦」風な形式によってシャープス・アンド・フラッツが本場のトミー・ドーシー楽団と対戦した際、圧倒的な好評を博したのがシャープスの「梅ヶ枝の手水鉢」だったことも、原は当然考慮に入れていたはずだ。このイヴェントは明らかにニューポートが手本にされており、日本側プロモーター本多徳太郎はアメリカ側のプロデューサーとしてジョージ・ウェインを三顧の礼をもって迎えていた。ウェインが原をニューポートに出演させたい、と考えたのはこの時だっただろう。

ジャズ映画ファンがニューポートと聞いて真っ先に思い出すのは、58年の第5回フェスティヴァルのライヴを記録した『真夏の夜のジャズ』“Jazz on a Summer’s Day”(監督 バート・スターン、59)である。写真家バート・スターンが監督としてクレジットを得てはいるのだが、スチルと実写ではやはり色々と勝手が違ったようで、編集者としてのみクレジットされたアラム・アヴァキャンのサポートが大きかったと言われる。アラムはCBSコロンビアのプロデューサー、ジョージ・アヴァキャンの弟で、兄ジョージの方は本作の音楽監督を務めた。
今でも音楽映画の最高傑作としてDVDにCD(サウンドトラック盤)に、と好セールスを続ける本作。出演者とその見どころを挙げていくだけでも一回分くらいになりそうだから今回は詳細の記述を止めておくが、伝説的なジャズマン、ウーマンが大挙して現れる様は壮観の一語に尽きる。後にモダン&フリー・ジャズ系のトロンボーン奏者として有名になるラズウェル・ラッドが何故かディキシーランド・ジャズ・バンドの一員で街中を車で練り歩くのが記録されているのも面白い。ひょっとしてバイトか。いやいやこの時代は多分こっち系のヒトだったのであろう。
この時代、ジャズフェスのライヴ映像を作品として残すという発想は珍しく、逆に言えば何故この年だけこうした映画が製作されたのだろうか、と今さらながら気になるところだが、そうした件も今回触れる余裕がない。他に60年の模様は各30分・全26回のテレビ番組「ジャズUSA」“Jazz U.S.A”となり、62年の模様は『ニューポート・ジャズ・フェスティヴァル1962』“New Port Jazz Festival 1962”(監督 バディ・ブレグナン)となって記録されていると資料にはあるものの、日本では見られたのかどうか。本音楽祭の成立事情などについては「ニューポート・ジャズ・フェスティヴァルはこうして始まった」(酒井眞知江 著、講談社 刊)という好著があるので、興味のある方はどうぞ。何故このフェスがジョージ・ウェインというジャズ界のインサイダーを起用しながら「非営利」なのか、そもそも何故「ニューポート」なのか、といった様々な疑問に答えてくれる。

マイルス・デイヴィス「マイルス&モンク・アット・ニューポート」

『真夏の夜のジャズ』の年、つまり58年のニューポートと言えばマイルス・デイヴィスのライヴ録音がアルバム化され有名だ。「マイルス&モンク・アット・ニューポート」“Miles & Monk at Newport”(COLUMBIA)である。モンクもいるでしょ、とタイトルから突っ込んだあなた、それは間違い。レコードだとA面マイルス、B面セロニアス・モンクという二つのグループのカップリングではあるが、モンクの方は別の年のライヴなのである。それでマイルスはフェスティヴァル初日58年7月3日の出演だったようだが、どうして映画に出てこないのだろう。惜しい。一方58年当時の精悍で獰猛な印象すらあるモンクは『真夏の夜のジャズ』にちゃんと記録されていて「ブルー・モンク」“Blue Monk”を弾いている。名場面、名演奏である。
もしもこの映画にマイルスの当時が出てきたら凄かっただろうに。アルバムのパーソネルをご覧ください。マイルス以下、キャノンボール・アダレー(アルト・サックス)、ジョン・コルトレーン(テナー・サックス)、ビル・エヴァンス(ピアノ)、ポール・チェンバース(ベース)、ジミー・コブ(ドラムス)。即ち「カインド・オブ・ブルー」“Kind of Blue”(COLUMBIA)のメンバーほぼ全員なのである。実はこのモード手法を駆使した名盤録音時(59年3月、4月)、グループのレギュラー・ピアニストはエヴァンスからウィントン・ケリーに既に替わっていた。そのためケリーも一曲だけ録音に参加しているものの、マイルスのコンセプトとしては「カインド・オブ・ブルー」はあくまでエヴァンスを音楽監督にしたアルバム。このあたりの事情は「メイキング・オブ・ジ・アルバム」というべき著書「カインド・オブ・ブルーの真実」(カーン・アシュリー 著、プロデュースセンター出版局)を読むのがお勧め。で、話が色々脱線しそうなので急いで本筋に戻ると、要するに映画の方にグループが出演していたら、ビル・エヴァンスがマイルス・クインテットのレギュラー・メンバーだった時代の唯一の記録映像となっていたはずなのである。惜しいというのはそういうこと。
もう一つ「惜しい」つながりで述べておくと、映画からさかのぼること三年、55年(第2回)のニューポートにもマイルス・デイヴィスが出演して好評を博し、これを客席からジョージ・アヴァキャンが聴いていて早速マイルスと契約を結んだ、という経緯がある。この時に演奏した「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」“Round About Midnight”は公式にはリリースされておらず、これまた「惜しい」。ただ海賊版は存在するらしい。この名曲の物語については近いうちに別に項目を立てるつもりである。