映画の中のジャズ、ジャズの中の映画 Text by 上島春彦
第53回 60年代日本映画からジャズを聴く その11 ピアノ炎上
ぼく海のそこで燃えているものを見たよ(佐藤信)
山下エッセーに戻る。「着替えてからまだ燃えているピアノをながめていると、スタッフのひとりでジャズピアノの先輩八木正生さんがやってきた。『鍵盤が燃えているよ。いやな感じだねえ』『自分のつめを燃されているようですか』だがおれは平気だった。」この時のことを思い出して、後の対談でもこんな風に語っている。「(山下)『特に鍵盤が燃えてるのが、自分の爪が燃えてるみたいだ』とおっしゃったんですね。」「(八木)あなたは『そういうことない』って言った。(略)あなたがドライにピアノに対せるということで相当自分とは違うんだなあと思った。」

「音楽の学校7 おんがくぐーん/ぼく海の底で燃えているものを見たよ」
この時の演奏は映像作品としてのみならず、先に山下が述べたようにちゃんと教材用レコードになっている。私は聴いたことがないのだが「音楽の学校7 おんがくぐーん/ぼく海の底で燃えているものを見たよ」(ほるぷ出版)。11枚セットのアルバムの第七番目である。このシリーズにはデビュー前の吉田美奈子が宮沢賢治の楽曲を吹き込んでいたりして面白い(実はネットで聴ける)のだが、ジャズ関連人脈からはこの問題の一枚にしか起用されていない模様。なかなか簡単には入手も出来ないので一応クレジットをちゃんと記しておこう。アルバムのA面全部を使っている。タイトルは「ピアノという楽器」。構成:八木正生。詩:佐藤信。ピアノ演奏:八木正生、山下洋輔、霧生トシ子。朗読:石井くに子。
詩が先にあってそこからインスパイアされたものなのか、ここにはもう一つ、水の中に沈められているピアノの音というのも収録されているそうで、「ぼく」は火のピアノと水のピアノ、両方を見たということになるのだろう。ピアノのデュオ演奏の部分もあるそうだが、山下はそれに参加していないはずだからもう一人のピアニストと八木によるものか、あるいはオーヴァー・ダビングをしているのかも知れない。何の言及もないし多分山下もレコードの方は聴いていないのではないか。ついでにアルバムB面も一部紹介すると「センチメンタル・ジャーニー」を安田南のヴォーカルで山本剛ピアノトリオ(福井五十雄:ベース、小原哲次郎:ドラムス)が演奏しているのが目を惹く。ちなみに近々雑誌「ジャズ批評」が安田の特集を組むという話も入ってきている。楽しみだがこれは本題とは関係ない。
このシリーズの企画には作曲家林光も名を連ねており、従ってピアノを燃やしたり水に沈めたり、というアイデアの発案者が八木かどうかは判断出来ないものの、とりあえず八木が山下にこれを依頼したのは確かだからその一点から類推する。結局八木は山下で実験をやりたかったのだと思う。人体実験、と言ってしまうと物騒だから音楽実験、ということにしておいて構わないが、それを自分の身体を使わず山下の身体を使って行なったのだ。何故だろう。多分そこで「(八木においては)山下とモンクが同列にある」ということが「生きる」のだ。八木は既にジャズ・レコード史においてきわめて早い時点でモンク作品集を実現させていた。八木がそれでモンクの何もかもを咀嚼吸収した等と考えたはずもないが、とりあえずモンクの音楽技法や理論のある側面をある程度つかんだ、とは考えていただろう。だから問題は次のステップということになる。単純に言えば技ではなくてピアニストの音楽的身体とピアノの関係とでもするべきか。それを探れるのは自分じゃなくてモンクとか山下なのだ、という思考回路。
もちろん炎上ピアノの一件は73年のことだし、モンクを巡る対談は82年だからこの件が直接に結び付くものではないが、潜在的にこの音楽的身体感覚という問題は八木の内にあったのだ。山下もそういう八木的問題を十分に理解していたに違いない。対談はこう続く。「(山下)モンクに戻りますけど、あの人のピアノの音は絶対にヨーロッパの伝統からは出て来ませんね。ピアノをゆがめちゃってるような感じがするんです。音楽の象徴、権化みたいなでっかい楽器を十本の指で叩いちゃって、平均律も何もグチャグチャにして、自分の肉声に近付けて行くっていうようなことをしてると思うんです。」(続く)