映画の中のジャズ、ジャズの中の映画 Text by 上島春彦
第49回 ポーランド派映画とジャズ  中編・オラシオさんのリスニングイヴェントに参加して
イヴェント「ポーランドのサントラとジャズの関係」に参加して
今回のコラムは本来、「日本でただ一人のポーランドジャズ専門ライター」オラシオさんの音楽イヴェント「ポーランドのサントラとジャズの関係」の様子のレポートが主眼であった。のだが、紹介された楽曲の正確なタイトルとそのジャズ史的意義は彼のブログ「オラシオ主催万国音楽博覧会」にちゃんとアップされているので、それをここでもう一度記すというのは止めることにしたい。アルバム単位でアルファベット表記されているのもありがたく、ポーランドジャズをこれから聴きこみたい、という方はそちらもチェックしてください。こちらでは私流のアレンジというか選択でイヴェント紹介楽曲の意味にいくつか彩りを付け加えているところ。では前回からの続き。

コメダ演奏による『夜の終りに』サントラ音源がかかったのは前回報告ずみ。その63年発行ATGパンフには岩淵正嘉による「ポーランドのジャズと若い世代」という記事が載っている。岩淵氏がポーランド大使館のパヴラック書記官のところで『夜の終りに』に出演し主題歌を歌っている歌手スワヴァ・プシビルスカの話をしたところ、ワルシャワから届いたばかりという最新の彼女の歌のテープを聴かせてもらうことが出来た、と。それが何と「有楽町で逢いましょう」のポーランド語版であった、という話題に始まって本作周辺のジャズの人脈を語っている。本作にはプシビルスカの他にも歌手カリーナ・イェンドルシックが出てくるのだが「主役のアンジェイにインタビューする婦人記者の役で、全然歌わないので少しがっかりした」とか。興味深いのはそれに続けて本作や『さよなら、また明日』に登場するような学生クラブの起源が述べられている部分である。引用する。

1957年はワルシャワの青年たちにとっては銘記されるべき年であったろう。この年ワルシャワの喫茶店「テリメナ」に集まったミツキェヴィッチ高校の生徒たちが彼らのためのクラブを設立することを提案し、間もなくモコトフスカ街にクラブが出来上がった。この場所はかつて作家ユゼグ・イグチナー・クラシェフスキー(1812~1887)の住んだゆかりの地であった。そして青年たちはクラシェフスキーの小説「ヒブリディ」から名称をとって彼らのバンドにつけたのである。(略)以前にはもうひとつの学生のジャズクラブ「ストドワ」のメンバーが中心になっていたが、「ヒブリディ」結成後間もなく、サドフスキー、シドレンコ、ラファルスキー、ポドグルスキー等のメンバーを加え、さらに『夜の終りに』の音楽担当のクシシュトフ・コメダたちを迎えた。(略)既にこの当時コメダのバンドは名声を博していたのであろう。

こうした記述を読むとポーランド派映画の新世代とポーランドのモダン・ジャズの興隆とが共に、その背景として進歩的な学生たちの存在(とその主張)を潜在させていたことが分かる。俳優ツィブルスキ、コビェラ、映画監督脚本家ポランスキー、スコリモフスキ、そして音楽家コメダ。皆それぞれがこうした学生文化の申し子だ。もっとも、これをポーランド派の旧世代ワイダのフィルモグラフィーに重ね合わせて検証すると『夜の終りに』とオムニバス映画『二十歳の恋』の苦い分裂として見えてくる。その件にはここで触れる必要はないが。

このバンド「ヒブリディ」が『夜行列車』(監督イエジー・カヴァレロヴィッチ、59)のサントラでのジャズ演奏者だと岩淵氏は記している。音楽監督はアンジェイ・トゥシャスコフスキ。イヴェントではヴァンダ・ヴァルスカのスキャット・ヴォーカルによる主題歌「ムーン・レイ」“Moon Ray”の二ヴァージョン聴き比べを行った。コメダに比べるとトゥシャスコフスキのサントラ音源発掘はあまり進んでいないとのこと。『夜行列車』のATGパンフでは先ごろ亡くなられたジャズ評論家岩浪洋三氏が記事「『夜行列車』とモダン・ジャズ」を寄稿しており、いくつか興味深い指摘もあるので引用する。

アンジェイ・トゥシャスコフスキはポーランドきってのモダン・ジャズマンの一人で、最近“ザ・シッカーズ”というバンドをひきいてアメリカにも渡り、ワシントンをはじめ、映画『真夏の夜のジャズ』の舞台となったニュー・ヨーク近郊のニュー・ポート・ジャズ祭にも出演して活発な活動をみせている人である。(略)マイルス・デイヴィス風のミュート・トランペットを中心としたコンボの演奏と、ヴァイブラフォンを中心としたモダン・ジャズ・クァルテット風の演奏が用いられている。(略)彼らのジャズは現在もっとも新しいといわれているイースト・コースト・スタイルで演奏されている。トランペットのソロはどうやらポーランドのナンバー・ワン、スタニミール・スタンチェらしい。

イヴェントではトゥシャスコフスキのアルバム「セアント」“Seant”からも一曲取り上げた。「ヴァリエーション・オン・ザ・シーム・ニア・ザ・フォレスト」“Variation on the Theme Near the Forest”である。「ニア・ザ・フォレスト」って何だろう、と今頃気にしてももう遅い。映画のテーマ・ミュージックなのか、あるいはクラシック起源か。メモし忘れたのかも知れない。スコリモフスキ関連で言えばトゥシャスコフスキは実験映画色のきわめて強い『不戦勝』(65)の音楽も担当していた。本邦初上映は68年の「フィルム・アート・フェスティバル東京1968」だったが、正式の日本公開は2010年である。キネ旬のベストテンではどのくらいの得票だったかな。(続く)