映画の中のジャズ、ジャズの中の映画 Text by 上島春彦
第49回 ポーランド派映画とジャズ  中編・オラシオさんのリスニングイヴェントに参加して
俳優ツィブルスキとその盟友コビェラ
前回も少し記したがポーランド映画祭2012の注目作品の一本に『さよなら、また明日』(監督ヤヌシュ・モルゲンシュテルン、60)がある。簡易な方のプログラムの解説から引いておくと「『灰とダイヤモンド』で主人公マチェックを鮮烈に演じ、東欧のジェームズ・ディーンと呼ばれたズビグニエフ・ツィブルスキが脚本・主演した知られざる傑作。フランス人の若い娘との淡い恋物語がヌーヴェル・ヴァーグ風の軽快なタッチで描かれる」とある。“悲劇のヒーロー、マチェック”の印象があまりに強いツィブルスキの意外な多面性を味わえるのが今回の企画にとって大きな収穫であり、全部で六本の作品が上映された。
本作では学生演劇劇団のリーダーで、陽気な若者。偶然道を聞かれたフランス人美少女に夢中になり、仲の良い劇団内の娘さんをないがしろにする。慣れないフランス語でコミュニケートし、出来ないテニスにチャレンジし、と青年は一生懸命に彼女の気を惹くもののその甲斐なく、ラストで美少女は本国に戻っていく。悲恋というほどではない。ただポーランド映画史的にみると、当時のポーランドは共産圏であったから、フランス人美少女に代表される西側資本主義へのあこがれのようなシチュエーションはそれだけで斬新なものだったとのこと。そうした傾向の映画の先駆けという位置づけらしい。ツィブルスキ青年はテニスも外国語も苦手なのだが、どちらも得意なのがロマン・ポランスキー扮する若者という物語の構図が面白い。
そして本作において「あこがれとしての西側」というよりも、もう少し地に足のついた西欧文化、ポーランドにすっかり根を張った現代的音楽芸術として描かれるのがモダン・ジャズなのである。学生や労働者の若者たちのたまり場である酒場で生演奏が行われていて、そこでピアノを弾いているのがコメダであった。これはコメダが音楽を手がけた記念すべき最初の長編劇映画なのである。本作がポーランド国内で今でも愛されていてサントラからのセリフ入りカヴァー・アルバム「さよなら、また明日」“Do Widzenia, Do Jutra”が制作されているという話題は前回にも述べた。複数いる本作脚本家の一人がツィブルスキだということもそこで既に。
しかし今回のコラムで話題にするのはツィブルスキではなく、彼と共に本作の脚本を執筆した俳優ボグミウ・コビェラについてなのだ。コビェラの名前も前回既に紹介している。アンジェイ・ムンクの傑作『不運』の主演俳優として。この反ユダヤ主義を揶揄した危険なコメディーが持つ複雑な魅力に関して、ここで多くの言葉を費やすのは本来のテーマからどんどん離れていってしまうので止めておく。とはいえ、喜劇作家としてのムンクに最も大きなインスピレーションを与えていたのがこのユダヤ系俳優であったことは改めて記したい。いわば、ワイダにおけるツィブルスキのような存在がムンクにおけるコビェラなのだ。ワイダ的英雄像とムンク的トリックスターとして。対照的、あるいは対称的な存在としても良いかも知れない。要するに二枚目と三枚目。
ところでツィブルスキとコビェラは、実はキャリア初期からの盟友である。プログラムの遠山純生くんによる解説から引用する。

1950年代前半にクラクフ演劇アカデミーを卒業したツィブルスキとコビェラは、港湾都市グディニャにあるヴィブジェジャ(沿海)劇場に所属した後、グダンスクで自分たちの実験的学生演劇一座「ビム・ボム」を立ち上げた。“雪解け”が始まった1956年のポーランドにあって、この「ビム・ボム」は最も大胆で刺激的な試みを行っている劇団の一つとして、あまねく称賛されるようになった。

ただし映画に登場する劇団は「ビム・ボム」をモデルにしたものではなくて、それに刺激されて56年に結成された「ツォ・ト」。これは「それ、何?」という意味だそうだ。「映画冒頭のクレジット・シークエンスに登場する芝居と映画が始まって間もなく(略)急遽上演することを決意する道化芝居は『ツォ・ト』の出し物だという。(略)出演者の大半はツィブルスキとコビェラの元仲間たちで、彼らは皆非職業俳優だった」。ポランスキーは多分この規定には当てはまらないのではないかと思う。
この原稿を書くために準備した『夜の終りに』のATGパンフレットに「ポーランドの学生生活」というコラムが掲載されている。演劇事情と二つの劇団にも触れてあるので端折りながら引用したい。雑誌「ポーランド」61年8月号コンスタンティ・プジナの記事からの抄訳と書かれているが誰が執筆したものかはどこにも記されていない。

ポーランドの学生劇場は芸術面できわめて高い水準に達している。彼らは前衛芸術を目指して野心的な仕事を取り上げるし、また職業劇団の長所をも受け入れている。しかし重要なのは学生劇場は職業劇団の持っている商業主義や固定化したルーティンに禍いされないことである。(略)すなわち彼らの目指すものは風刺的、かつ詩的なショウであり、これは文学的キャバレーと称される。しかし、この形式に限られたわけではなく、歌や踊りや人形劇のグループもあって、たとえばグダンスク市の「ツォ・ト」劇団は腕と手先きだけのショウを上演していて、これは非常に好評である。(略)こうした新しい形の学生演劇運動が始まったのがこの数年前からだといっても恐らく信じられないであろうが、最初の学生劇場の結成されたのは1954年グダンスク市で今やポーランド映画界のホープとなったツィブルスキやコビェラなどの若手俳優たちと芸術家たちのグループが「ビム・ボム」という風刺劇団でスタートしたのだった。これは若々しい精神とユーモアにあふれた抒情的キャバレーと呼ばれたが、その後数年のうちに「ビム・ボム」は職業劇団をも凌ぐ有力な劇団になってしまった。一方ワルシャワにはSTS(学生風刺劇場)が組織された。(略)そして各地の学生劇場がこれに続いて活動を始めるようになった。そして最後に現れたのがワルシャワの「ストドワ」(納屋の意味である)だった。「ストドワ」はその新鮮さ、とてつもない嘲笑やグロテスクなパロディや魅力的な装置で比類のない劇場だった。

記事が書かれた年代から推して、これが運動の60年代初頭までの総括なのは明らかだ。似た動きは数年遅れで日本にもあって、学生演劇の一部に左翼プロパガンダ演劇とはっきりたもとを別った劇団の現れるのが60年代であり、やはり彼らもとてつもない嘲笑、グロテスクなパロディ、魅力的な装置などで演劇の新時代を切り開いていく。日本の早稲田小劇場とか紅テント、黒テント、天井桟敷などの新しい劇団が既成の新劇の空しいアメリカナイズを免れて土着的な方向に沈潜していくのは、特にポーランドに範を取ったわけではない(と思うのだが)にしても興味深い同調性である。