映画の中のジャズ、ジャズの中の映画 Text by 上島春彦
第43回 アナクロとコンテンポラリー、または長すぎる箸やすめ
ワイラーの懐刀としてのコーニッグ
文章の性格上(これは本文ではなく「あとがき」である)、ささっと駆け足で記述している印象もあるが、改めて時間軸に沿い、コーニッグの動きをまとめておきたい。「その後」に至る経過である。第二次大戦中のヨーロッパ戦線でワイラーと協力して軍事ドキュメンタリー映画『メンフィス・ベル』“Memphis Belle”等を作ったコーニッグは戦後もそのままワイラーの共同プロデューサーとなり、ハリウッドに同行した。クレジットされてはいないが、従ってワイラーの戦後第一作『我等の生涯の最良の年』“The Best Years of Our Lives”にもコーニッグの助力は当然あった、と見るべきだ。本書執筆当時はIMDbでも本作へのコーニッグ関与を示唆していなかったが、さっき見たらちゃんと載っていた。ここ数年で付加された情報である。これは「正解」だと思う。本書第八章「『ローマの休日』の脚本家」においてコーニッグのハリウッドでのキャリアをスケッチしているが、意外とIMDbの修正情報には本書の内容が反映しているのかも知れない。彼の映画製作者時代を総括した文章は実は本書以外ほとんど存在しないのだ。今度はその第八章本文から引用しておく。

だがコーニッグとワイラーの実り多きコラボレーション時代は、公式的には『黄昏』をもって終える。コーニッグの名前が「ハリウッドの映画産業に巣食う共産主義者」として、51年9月19日のHUAC喚問において脚本家マーティン・バークレーによって挙げられたのである。この証言に呼応して五日後の24日、レスターはHUACに召喚され、彼がかつて共産主義者であったかどうか答えるように求められたが、これに関する一切の証言を拒否。HUACの52年度の報告書(公式的なブラックリスト)に載り、コーニッグはハリウッドから追放されたのである。
ここで強調されねばならないのは、コーニッグは証言拒否により「公式には51年9月末の時点でブラックリスト入り」したという歴史的事実だ。ただし、それならちゃんと51年追放、同年コンテンポラリー・レーベル設立でつじつまが合うではないか、等と今さら根拠のあやふやな自説に固執する気はない。調査の結果、どうやら同じ年に新レーベルを立ち上げたのは偶然らしいとほぼ判明した。ネット情報の受け売りで申し訳ないがひとまずその通り記述しておく。アメリカにシュワンという網羅的なレコード・カタログがあり、そこにコーニッグのジャズ・レーベルとして上記「グッド・タイム・ジャズ」の全商品番号が同年掲載されたものらしい。このカタログ・ナンバー情報をひとまず固定化することにして、以後のアルバムの受け皿として新レーベルを作るのが得策という経緯だったようだ。なるほど。話がややこしくなるのでこれ以上書かないが、この時コーニッグはコンテンポラリーの他にも新たなレーベルを興している。要するにコーニッグのブラックリスト入りとコンテンポラリー設立は無関係である。
さて、追放される(はずの)コーニッグにはこの時、とりあえずレコード・ビジネスよりも重要で困難な仕事が残されていた。それが『ローマの休日』の製作だったのだ。コーニッグよりもずっと有名な共産主義者ドルトン・トランボ(刑務所から出所したばかりだった)が執筆したオリジナル脚本を、その情報を隠してパラマウントの予算で映画化する、しかも書き直しを行った脚本家イアン・マクレラン・ハンターまでバークレーの密告でハリウッド追放が決定、その上、製作はロケーション撮影だけでなく全面的にローマで行い、予算はイタリアに凍結されていたパラマウントの資産をちびちび使う、という三重苦、四重苦の状況である。結局これをやれるのはコーニッグしかいない、というのでパラマウントは公式的な追放決定を無視(!)してしまうことにした。都合が良いことに彼は元々ワイラーが前の会社から連れて来た人物だから、この際、都合の悪い情報は聞かなかったことにしてさっさとローマに送りこんでしまえばわかるまい、という思惑である。実際ヨーロッパまでは全米在郷軍人会(赤狩り推進組織)の支配の手は及ばず、『ローマの休日』はワイラーの共同製作者コーニッグの手で無事完成した。もっとも、さすがに翌年6月には軍人会にバレてしまい、8月に彼の契約が切れるとそのまま再契約はなかった。要するに追放されたはずの共産主義者が一年近くパラマウント映画撮影所から給料を得ていたことになる。現在同作のクレジットにコーニッグの名はない。ただしIMDbには近年、クレジットされずに共同製作者を務めたと記載されるようになった。やっぱり本書のおかげでしょうか。

ところで問題のコンテンポラリー、確かに設立(登記って言うのかも)は51年だがスタートしたのは52年である。明らかにコーニッグが『ローマの休日』の重責から解放され、アメリカに帰国して後、アルバム製作が開始されている。直接の録音責任者(録音エンジニアという意味ではなく制作者)はコーニッグの右腕ネスヒ・アーティガンだが録音年月日は1952年7月22日だ。6月にバレて8月にクビになる、その中間でレーベル初仕事というのも面白いが、録音された四曲の中に「ビバ・ザパタ」“Viva Zapata”という曲が含まれているのも皮肉である。このタイトルは当然、映画『革命児サパタ』“Viva Zapata!”に引っかけたものだろう(ただし映画のための曲ではない)が、この作品の監督エリア・カザンはほんの三カ月前にハリウッドの共産主義者を非難する新聞広告を出して、華々しい大転向をやってのけたばかりだったのだから。現在このセッションは「ライトハウス・オールスターズ Vol.3」“Howard Ramsey’s Light – house All – Stars Vol.3”(Contemporary)に収録されている。

ここまでで今回連載分の気力、体力、知力全て使い果たしてしまった。前回の続きは来月とさせていただきたい。