映画の中のジャズ、ジャズの中の映画 Text by 上島春彦
第39回 60年代日本映画からジャズを聴く   その1 網走番外地の三人、富樫、山下、八木正生
渡辺貞夫カルテットの或る一日
このグループの演奏もまた録音は残されていない。だが例によって、ちゃんと相倉のレポートが月刊「スイング・ジャーナル」66年8月号に掲載されていた。再録「山下洋輔の世界」から。「六月二十四日金曜日、すっかり新装なった新宿ステーションをくぐって夕暮れの街に出る。(略)ちょうど伊勢丹デパートの裏でもある細い路地を入るとコルトレーンの大きな看板のかかったピット・インがある」と記事は始まる。

フライデイ・ジャズ・セッションは今、最高の人気を得ている渡辺貞夫カルテットの出演。店の前の看板には彼の他、山下洋輔、紙上理、富樫雅彦からなる四人の名前がなぐり書きされている。(略)七時前だというのに既に満席に近く、ボーイさんに促されてあい席する。(略)渡辺貞夫の簡単な合い図と共に一曲目の“アイ・レフト・マイ・ハート~”がミディアム・アップのリズムに乗る。(略)約四十分がワン・ステージで休憩に入った。この間の渡辺貞夫のアルトはよく鳴るどころか唸り、吠え、怒りをぶちまけているような激しい演奏だ。ここで演奏の出来具合を云々という前に、ジャズのイディオムを体得した前向きの演奏態度とバイタリティーが聴衆を完全に魅了してしまう。

そして相倉は続けてピット・イン・マネージャー酒井五郎の話、渡辺との会話を引きながら、日本のジャズ・プレイヤーの層の薄さや、そこから来る(逆説的だが)仕事の取りやすさ、甘さを指摘する。例えば「簡単な譜面すら完全に読めない人が、音が出せるというだけで、もうクラブやキャバレーで音楽家として通用し、安易に収入も得られる。(略)勉強はしない。そのくせ、モダン・ジャズをやっても聴いてくれない、解ってくれないと大義名分を口にする。(略)」とは渡辺の言葉。これを「厳しい言葉であるが、これも彼が日本のジャズを愛し、真剣に思うからこその発言であろう」と相倉も受ける。
この時期、渡辺は自身のバンドでの演奏活動に並行して、バークリー音楽院に学んだジャズ理論を若手ジャズメンに教育することにも積極的に取り組んでいた。山下の既述発言「いままでやってきたことの全てが一度ご破算になっていく」とは、山下達若手が無手勝流でやってきた実験的なジャズのやり方をいったん棚上げして、実に理路整然とした「バークリー・メソッド」を渡辺経由で身につけようと方向変換したことを意味するものだ。このレポートからは66年6月の時点で日本のモダン・ジャズ(この場合、バップからフリージャズまでの広いカテゴリーで「モダン」と呼んでいる)の軸が渡辺貞夫に置かれていて、何より渡辺自身がそれを意識していたことがうかがえる。
しかしこの記事の価値はそれだけではない。相倉がこの執筆の時点でどこまで意識的だったかはわからないが、山下と富樫の離反の瞬間までをも捉えてしまっていたらしいのだ。上記に続けてこう記されている。

その間、山下と富樫が今のステージでの音楽的なくいちがいからちょっとした口論を始める。リズム・キーパーとしての富樫とピアノのカウンター・ポイントの入れ方が合わないと言い合っているようである。三十分の休憩を入れて二回目のセッションが始まる。

無事二回目が始まったということは、口論の方は中断されたのだろうか。或いは、その後で話がぶり返されて山下がグループ脱退に至る、という展開だったとも考えられる。いずれにせよ相倉は、これ以上は書いていない。ボサノヴァのリズム・キーピングに(山下が)失敗してケンカになったとされる場合も多いので、二度目のセッションでそういう場面が起きたものかも(最初のセッションにボサノヴァは演奏されていない)。はたまたこれとは別な或る日にこうしたケンカが再開されたとか…。

ともかくこの日かこの数日後か、山下洋輔は衝動的にグループをやめ、「そして後も見ずに帰って来てしまった」。「バンドマンのマナーもくそもない。(略)それでも何と、渡辺さんは翌日電話をくれ、戻るように言ってくれた。しかし、もはや頭に血がのぼってしまっていたぼくは、それも断った」。そういうてん末である。この引用も「よじれ旅」からのもの。