海外版DVDを見てみた 第2回『ライオネル・ロゴージンを見てみた』 Text by 吉田広明
『帰れ、アフリカ』路上の音楽家

『帰れ、アフリカ』のミリアム・マケバ
『帰れ、アフリカ』
59年のロゴージンの第二作は、いまだアパルトヘイト解消には程遠い南アフリカで撮られる。飢饉のために故郷の村を出て、ヨハネスブルクの黒人居住地ソフィア・タウンにやってきた主人公は、金鉱工夫、白人家庭の召使、ガレージの作業員、レストランの給仕など様々な職に就くが、偏見や許可証の問題などで直ぐに辞めさせられる。そもそも滞在許可証なしには居住もできず、許可証をもらうには、職があることを証明できねばならず、職を持つためには許可証がなければならないという具合で、許可証の体制自体が矛盾している。故郷においてきた妻子がやってくる。にっちもさっちもいかない状況で、妻は非合法で白人家庭に家政婦として雇われ、なんとか親子四人で暮らし始めるが、警察が手入れに入り、主人公を逮捕、その留守中、黒人ギャングが妻を襲おうとして抵抗され、絞め殺してしまう。翌日釈放され、帰宅して、死体を発見した主人公が泣き叫ぶ声に、彼がこれまで働き、搾取されてきた数々の仕事場が畳みかけるように映し出されて映画は終わる。

ロゴージン夫妻らスタッフは、57年5月に南アフリカに入り、六ヶ月間その土地と人々を知り合うのに費やす。反アパルトヘイト団体と注意深く接触、そこの人々を通じて作家のウィリアム・モディゼーンと、ジャーナリストのルイス・ンコジ(Nkosi)と知り合い、三人でシナリオを作り、撮影に入った。映画の真の主題が当局に知れれば撮影は禁止、フィルムは没収されることは明らかだったので、黒人の音楽映画を作っている、という建前で撮影は進められた。実際、街中の音楽が映画には頻出する。フルートのような笛を縦に吹く合奏団や、演奏し、歌いながら街中を練り歩く教会の人々、プレスリーを歌う若者もいる。酒場で歌う女性歌手はミリアム・マケバ。代表曲「パタパタ」を既にリリースしてヒット歌手ではあったが、国際的に認知されていたわけではない彼女を世界的スターにするきっかけを作ったのが実は『帰れ、アフリカ』だった。ロゴージンは彼女のためにヴィザを申請し、この映画がプレミア作として出品されたヴェネチア映画祭に連れて行き(ちなみに批評家賞を受賞)、彼女の存在を世界に知らしめた。また、彼女の海外でのコンサートをプロモートもし、アメリカでの公演では旅費、滞在費を負担した。

どんなスラムにも音楽は鳴り、音楽が鳴れば人々は踊り出す。そうした様々な音楽が、この映画の主題の暗さを救っているし、またそれ自体で映画を生き生きしたものにしている。一方で、当局の目を盗むようにしてかすめ取られた映像は、暗い緊張に満ちていて、ぶっきらぼうな編集(前作と同じカール・ラーナー)も、無論意図的なものではあろうが、主題に見合っている。それぞれの登場人物の演技が、当然素人なので硬いのも却って効果的に見える。ただ、これは我々日本人が、黒人人種というものに慣れておらず、一人ひとりの個性を顔で見分けることができないからかもしれないが、『バワリー25時』におけるほど、人々の顔や個性が強く印象づけられないのは確かだ。主人公も、その妻も、「アパルトヘイトによって迫害されている黒人」であって、例えば『バワリー25時』におけるレイやドクのような、映画の役柄上の意味を超える個性を放っていない。

これはやはり『帰れ、アフリカ』が、メッセージ映画として撮られていることの弱みである。そもそもロゴージンは裕福な織物産業の家に生まれた人間だが、差別やファシズム、植民地支配などの社会不正と戦うために映画を志したとされ、始めから強固な使命感を持って映画作りに入っている。『バワリー25時』は、映画作りを実地に学ぶための修行と位置づけられ、メッセージ性はいささか抑えられている。しかしだからこそ『バワリー25時』は、予め定められた意味を免れる強さに満ちているのだ。それに対し、この『帰れ、アフリカ』は、始めから伝えられるべきメッセージが決まっている。無論、音楽など、それを免れる強さがあり、むしろそれが映画を救っているとさえ言えるのだが、やはりメッセージが先立っているという事実が映画の力を弱めていることは否定しようがない。そもそも、すべての社会問題は、何らかの条件の重なりによって生じている事態であり、厳然と存在する「事実」とは異なる。それを成り立たせている条件の腑わけによって、「問題」が「問題」であることを止める、あるいは「問題」を見る視点の変化によっていきなり見晴らしが良くなることもありうるのであり、真に問題の解決=解消を目指すなら、実はそこまで踏み込むべきでは、という気もするのだ。例えば『帰れ、アフリカ』においても、アパルトヘイトの実態が描かれていても、アパルトヘイトを成り立たせているものが何なのか、ロゴージンの目はそこまで届いてはいないように見える。アパルトヘイトが、倒すべき相手、と見なされているだけでは、それを本当に解消させるには至らないのだし、むしろ敵を実体化してしまいかねない危険すらあると言えよう。そのような意味での、ロゴージンの戦略の弱さが最も露骨に現れてしまっているのが、三作目『良き時代、すばらしき時代』である。