海外版DVDを見てみた 第34回 オーソン・ウェルズの未公開作、未完成作 Text by 吉田広明
フィルム・センターでの未完成作品上映
ここまで書いたところでフィルム・センターでのウェルズの未完成映画上映と、修復に関わっているシュテファン・ドレスラー氏の講演に行ってきたのだが、これが素晴らしかった。上映されたのは3本、『ザ・ディープ』と『風の向う側』と『ドリーマーズ』。

『ザ・ディープ』撮影中のウェルズ、裸の後姿のオヤ・コダール

『風の向う側』ウェルズ、ボクダノビッチ、ヒューストン

『風の向う側』撮影を訪れたジョン・フォード

『風の向う側』コル間に乗ったコダールとバイク男
『ザ・ディープ』は撮り足りない部分が残ってはいるものの、撮影は終え、編集まで出来ていたが、ローレンス・ハーヴェイの急死(アンソニー・マン『殺しのダンディー』撮影中だった)によりアフレコが叶わず(遺族が吹き替えを拒否)そのままになった。新婚夫婦(妻はオヤ・コダール)がヨットで地中海に出ると、ボートでやってくる一人の男(ローレンス・ハーヴェイ)を拾う。男が言うには自分が乗っていた船の乗組員が皆死に、船は沈みかかっている。夫が行ってみると無人に見えた船に男と女(ウェルズとジャンヌ・モロー)がおり、一方ヨットは疲弊して寝ていた筈の男に乗っ取られている。上映は導入部分と、夫、ウェルズ、モローらが浸水した船を何とか修復しようとしている辺りを描いた八巻目の抜粋上映で、以後どうなるのかは分からない。狭いヨットの中での撮影で、クロース・アップの応酬、保存具合のせいなのか時に真っ白になってしまうのもどことなくシュールな印象を与える。

『風の向う側』。これはハリウッドの落ちぶれた監督が復帰を目論むが事故死、その後の遺されたフィルムを編集したという体裁の内幕もの、というかほとんどメタ映画と言ってよい。元々は私費で、出演者たちはノーギャラで撮影開始されたが、イランの出資者が現れてある程度の予算が確保でき、アリゾナ・ロケを含む大規模な撮影に移行した。撮影はある程度終了したものの、いつまでもウェルズが編集を終わらないのに業を煮やした出資者がフィルムを回収してしまい、権利関係が片付かない限り動かせないという。ウェルズが所持していた作業用フィルムがウェルズの倉庫に残っていて、それを物語が分かるように抜粋編集したものが今回上映された。監督を演じるのはジョン・ヒューストン。彼が撮った映画断片(マネージャーか製作者が出資者にラッシュを見せながら解説したり、と言っても自分も監督の意向がさっぱり分からないのでしどろもどろ。また別の断片では、後ろから監督の演技指示の声が入っていたりする)と、彼のために開かれたパーティ(ポール・マザースキーやデニス・ホッパーが映画とはどうあるべきか論議したりする場面がある)の場面とが交錯する。本編前に上映された、新作の意図を周囲の人々に解説するウェルズが映ったフィルムでは、全編即興で撮ると述べており、実際断片的に見ても物語性は薄く、生々しい印象がある。

劇中監督が撮ったフィルムが素晴らしい。オヤ・コダール演じる女とバイク乗りの男が主人公。車中の女をバイク男が交差点で見かけ、バイクで、女が降りてからは徒歩で後をつける。都市のビルの合間を行く女がガラスに映ったり消えたり、透き通って向う見えたり、恐らくは都会の一隅のみを使っての撮影なのだが、まさに迷路が現出しており、無から有を生み出してしまう編集の魔術師ウェルズの面目躍如。また別の場面では、夜の雨の中、車の前部座席に乗り込んだコダールとバイク男。コダールが男の服を脱がしてゆき、自らも服の前をはだけるとその下は全裸。コダールは男にまたがり、騎乗位で性交を始める。男の視点で近づいては去るコダールの顔、またコダールの腰使いや揺れる乳房のクロース・アップなど、先にウェルズにはエロティシズムは存外薄いなどと書いたが、とんでもない話である。ウェルズはこんなにも柔軟なのだったかと驚いた。スタイリストであることは確かにしても、固定化したスタイルなど投げ捨てるにやぶさかではないのがウェルズなのだ。この場面は、オヤ・コダールのパリの自宅の庭で撮られたという。水を降らせ、照明で対向車を演出し、カメラを揺らして走行感を出した。数分に渡る結構長い場面だが、車が動いていないと全く感じさせない。これも少ない手持ちの手段で何とか映画をひねり出して見せるマジックでいかにもウェルズらしい場面でもある。これは我々の思うウェルズと、思いもかけないウェルズが同居する稀有な場面なのだ。さらに、野外に置かれた、スプリング丸出しのベッドで二人が裸で絡み合い、下からのあおりで、白い肌にスプリングの黒い螺旋が複雑な文様を描くのを見せる。後ろから監督の声がしていて、男はそのままそこを離れ、カメラが彼を追うとそこはスタジオだったらしく、傍らに機材などが並んでいるが、男はそこを抜け、裸のまま通路を去ってしまうまでをワンショットで捉えている。

即興という点でヌーヴェル・ヴァーグ的であり、またバイク男やデニス・ホッパーなどが出ているのを見ると、『イージー・ライダー』(69)などを参照しているのかとも思える(本作の撮影は70~76年)。メタ映画的な構成は確かにこれまでになかったとは言え、『フェイク』や『フィルミング・オセロ』など、エッセイ的に映画を作っている自分を見せる作品は無論、『市民ケーン』のような作者自身が注目の的となるような映画作りをウェルズは意図しているいないにかかわらずしてきたわけで、思えばウェルズの作品はその多くがメタ映画なのかもしれない。

『ドリーマーズ』で語り手を演じるウェルズ

『ドリーマーズ』で不死の女を演じるコダール
語ること自体を前面に押し出すという意味で、『ドリーマーズ』もメタ映画(メタ物語)である。これは『不滅の物語』と同じイサク・ディーネセンの同名の短編と『エコー』を組み合わせたもの。ディーネセンは語り手を物語の中に配することが多く、語り手と語る内容の関係性、枠構造ないし入れ子構造がウェルズの関心を引いたのではないか(そのような語りの構造を採るディーネセンに、ウェルズは自身を見ていたようだとドレスラー氏は述べていた)。イタリアの女性オペラ歌手が火事で死にかけ、一命をとりとめるが不死の存在になってしまい、彼女は様々な時代、様々な場所で様々な人々と出会う。語り手は彼女に惹かれ、彼女を援助し続けた男。彼女はまったく年を取らないが、彼は既に老いてしまっている。語るのは老いた彼(ウェルズ)。彼女が彼のもとを去ろうとしており、その別れの場面が二通り撮られている。ウェルズの自宅を使って、衣装も自費であつらえたものという。テスト素材であるとは言うが、語り手を捉えたモノクロ映像、ウェルズの声、カラーで捉えられた時代物衣装のオヤ・コダール、役者の存在感で十分一篇の映画を見たような気にさせられる(素材自体は残ったもの全てを使用しているとのことだったが合わせて15分くらいだったろうか)。

今回の上映、講演は、単にウェルズの未完成作品を見られたというだけでなく、それが何とも瑞々しく、これまでのウェルズ像を裏書きもするのだが、また新しい面も見せてくれるという点(特に『風の向う側』)で、嬉しい驚きであった。これらの作品の修復はまだまだ途上にあるようだが、これらの作品がいずれスクリーンで、あるいは盤のかたちであっても、見られることを望みたい。