海外版DVDを見てみた 第23回 ヒューゴ・フレゴネーズのアメリカ時代 Text by 吉田広明
ヒューゴ・フレゴネーズ
ヒューゴ・フレゴネーズはアルゼンチン出身の映画監督で、監督になったのはアルゼンチンだが、その後ハリウッド、イタリア、イギリス、ドイツ、そして再びアルゼンチンと、何か国もの映画界を渡り歩いている。とはいえ残した映画の本数は二十数本に過ぎない。世界の各地に足跡を残してはいるものの、例えばボリス・カウフマンやアルベルト・カヴァルカンティのように、その土地その土地の映画界に偉大な業績を残しているわけでもない。筆者は彼の全作品を見ているわけでもないし、全体像はまだ把握していないが、職業監督ということで大方間違いないものと思う。今回は、彼のキャリアの中の多くの部分を占める、アメリカ時代を中心に取り上げる。

ハリウッドの監督になるまで
フレゴネーズのキャリアをざっと眺めておく。以下はスウェーデンの英語版ウェブ雑誌Film Internationalに掲載の、The Way of a Gaucho : The Career of Hugo Fregoneseにもっぱら負っている。より詳しく知りたい方は直接参照してもらいたい。フレゴネーズについては2003年アミアン国際映画祭でレトロスペクティヴがあったようで、その際のカタログがあるようなのだが、筆者は未参照。

フレゴネーズはイタリア系の移民の三人兄弟の末っ子として1908年アルゼンチンに生まれる。ブエノス・アイレス大学を中退後、ジャーナリストなど職を転々とした後、1935年コロンビア大学で学ぶためにアメリカに。コロンビア大学はニューヨークにあるが、1937年フレゴネーズはハリウッドに移住を決意(この辺の理由は上記の記事には書いてない)、アルゼンチンのパンパを舞台にしたガウチョもの(歌と恋愛を主とした、南米を舞台とするコミカルな西部劇)のアドバイザーを務める。映画に興味を持ったのはこのあたりからのようで、彼は頻繁に映画館に通うようになり、時には同じ映画を二十回も見たという。何度も見るうち、内容は知り尽くしてしまうので、どう作られているのかに関心が向くようになった、という。言ってみればヌーヴェル・ヴァーグのしたことを遥かに先駆けてやっていたわけである。

『Donde mueren las-palabras』ポスター


『I Girovaghi』のユスチノフ(中央)

『Apanas un delicuente』ポスター


フレゴネーズは1939年、一旦アルゼンチンに帰り、その地で映画界入り、アルゼンチンでは著名な映画監督Lucas Damare(読み方が分からないので原語標記)の助監督から、彼との共同監督Pámpa bárbara(45、これも原語標記)を共同監督。単独監督作品としてはDonde mueren las parabras(46)が初(英語題として上記記事はWhere words failとしている、直訳すれば「言葉が役に立たないところ」)。年老い、芸も人気がなくなった腹話術師が、自分の出演していた劇場の夜警になり、若いピアニストが小屋のはねた後、自分の曲を弾いているのを見、彼を助けてやろうと決意する、という話で、「美学的には、表現主義的な光と影から、前衛映画に近い夢魔的な性質にいたる、さまざまなスタイルやテクニックの混合」であり、十分間にわたるバレー場面があることから、マイケル・パウエル=エメリック・プレスバーガーの『赤い靴』や『ホフマン物語』を想起させるという。この作品はヒットし、作品に自信があったフレゴネーズはこれをMGMのルイス・B・メイヤーに見せる。これが低予算で作られたと知ったメイヤーは一年の契約を結ぶが、フレゴネーズが振られたどんな仕事も蹴ったので解雇。この時はハリウッドへの転身はならなかった。ちなみにフレゴネーズがハリウッド期以後にイタリアで撮ったI Girovaghi(56)も、年老いた腹話術師が主人公(ピーター・ユスチノフが演じる)。映画に押され、落ち目になった旅の腹話術師夫妻が、孤児院から逃げ出した男の子を助ける、というもの。フレゴネーズが参加する前に企画もスタッフも決まっており、単なる雇われ演出だったようだが、処女作とほぼ同じような題材であるのは不思議といえば不思議。監督本人も気に入っている映画のようである。シチリア島での全編ロケ、みずみずしいカラー映像が、レストアされて2009年に蘇ったという。

その後アルゼンチンに戻って撮ったのがApanas un delicuente(49)、上記記事の英語題はLive in danger(「危険に生きる」くらいか)、自分の勤務する銀行から金を奪う銀行員を描く犯罪もの。ブエノス・アイレスの路上でロケを行った、セミ・ドキュメンタリー的な作品という。同じころハリウッドでも、ヘンリー・ハサウェイの『Gメン対間諜』(45)、『出獄』(48)、ジュールス・ダッシン『裸の町』(48)を上記記事の筆者は引き合いに出しているが、それらハリウッドのセミ・ドキュメンタリーの影響、というよりは(ハリウッドを睨んで活動していたのだろうから、ハリウッドの動向はつかんでいたかも知れず、それもあると思うが)、同時代的な空気(戦後の荒廃、イタリアのネオ・レアリスム)、というものもあったかもしれない。

フレゴネーズのアルゼンチン時代最後の作品がDe hombre a hombre(49)。田舎の医師のところに、息子の友人が銀行強盗後に逃げて助けを求めてくる。息子の自殺に負い目を追っている医師は、彼を助けようとする。またしても年長者による庇護の話。