コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 座頭市・その魅力【その1】   Text by 木全公彦
天保水滸伝
『座頭市物語』の背景になる「天保水滸伝」について説明しておく。

天保15(1844)年、下総国を縄張りにするやくざである飯岡の助五郎の一家と新興やくざである笹川の繁造の一家が大利根河原で争った史実を基にした講談が「天保水滸伝」である。史実によれば、助五郎は繁造とは親子ほども年が離れており、笹川一家が弱小であったので助五郎の方は最初相手にしていなかったらしい。ところが清滝村にある岩井の不動さまの祭礼博奕の場所割りをめぐって対立し、しばしば小競り合いを繰り返すようになった。両者とも草相撲の力士出身の博徒。腕には自信がある。

小競り合いは次第にエスカレートし、天保15年7月某日、笹川一家が飯岡一家を襲撃。助五郎は留守だったので事なきを得たが、この襲撃に飯岡の助五郎は激怒し、8月某日に大利根河原で大乱闘になる。飯岡側も多くの死傷者を出してしまうが、笹川一家は重傷を負った食客の平手造酒を残して逃走。平手は翌日に死亡する。そして飯岡の助五郎が晩年、神田伯竜子という講釈師を呼んで、この喧嘩(でいり)の顛末を聞かせて作らせたのが講談「天保水滸伝」だといわれている(それはのちに浪曲に発展し、玉川勝太郎の十八番となる)。

平手造酒の実際の名前は平手深喜(みき)。千葉周作道場の北辰一刀流の使い手であったが、道場を破門され、落ちぶれて、労咳を病み、酒でかろうじて命を保っていたという。「天保水滸伝」では、喀血しながらも「行かねばならぬ、行かねばならぬ、行かねば平手の男が立たぬ」という名ゼリフで喧嘩に出向くニヒルな剣客として描かれている。だが、実際の平手は、病弱な算術の先生で剣術の方は得手ではなかったとする説がある。それを慶応3(1867)年に利根川沿いを旅行中だった宝井琴凌が、この浪人の話に生涯30人以上を斬ったとされる秋田藩士の話を加えて創作したのではないか、というのである。

犬塚稔は、こうした背景を巧みに物語に取り入れ、飯岡の食客になった座頭市と笹川の用心棒である平手造酒との友情をメインに据えた名脚本を書き上げた。監督・三隅研次、撮影・牧浦地志、音楽・伊福部昭、美術・内藤昭、という最強のチームがスタッフに揃った。しかし、大映のプログラム・ピクチュアのローテーションを担当した池広一夫の証言によると、当初この作品は池広が監督することになっていたという。衣裳合わせを済ませ、脚本も3稿まで直したところで、池広の師匠であった市川崑が『破戒』(62年)を監督するために京都撮影所入りし、池広をB班の監督に指名したため、『座頭市物語』の監督は三隅に受け継がれたのだという。

勝新太郎にはすでに『悪名』シリーズのヒット作があったにもかかわらず、それまでヒット作がなかった勝新太郎の興行的価値をまだ危ぶむ声や盲目の按摩が主人公だという異色の題材であるということで、B級の予算枠のプログラム・ピクチュアとしてモノクロで撮影されることになった。とはいえ、現在の映画からすれば撮影所システム黄金時代の作品だから予算も技術陣もキャストも超一流の格調高い作品である。