映画の中のジャズ、ジャズの中の映画 Text by 上島春彦
第63回 人間国宝ジャズ 山本邦山追悼
禅瞑想とジャズ
邦山は述べる。「私が、邦楽以外のジャンルへ足を踏み入れたのは、そもそもジャズが最初で、尺八演奏家としてデビューして間もない時であった。そのジャズとの出会いを最初に演出して下さったのは唯是震一先生である。」1962年、滞日中だったジャズ・クラリネット奏者トニー・スコットが唯是とセッションを持つことになった際、唯是が邦山にも声をかけたのだ。トニー・スコットと言っても、こちらはリドリー・スコットの弟じゃない。1921年ニュージャージー州にイタリア系移民の子として生まれたアンソニー(トニー)は十代初めから(メタル)クラリネットを始め、やがてニューヨークに出てプロ奏者の道に進む。40年代初頭、スイングジャズに飽き足らないジャズメンがこぞってジャズ・セッションに興じていたミントンズ・プレイハウスに彼も参集することになり、やがてビバップと呼ばれることになる「新しいジャズ」の形成メンバーの一人となった。残念ながらこの時期の彼の演奏は残されていないものの、名盤「ミントン・ハウス+1/チャーリー・クリスチャン」(アブソードミュージックジャパン)がこの時代に相当する。本コラム第22回で取り上げた。また、彼のことは既に本連載第23回で取り上げている。ビル・エヴァンス(ピアノ)がらみである。彼がスコット・ラファロ(ベース)、ポール・モチアン(ドラムス)と結成したトリオの母体が実はトニー・スコットをリーダーにしたカルテットであり、現在「サング・ヒーローズ」“Sung Heroes”(SUNNYSIDE)というアルバムが残されていること。その後トニーはグループを解散して来日、五年間を過ごし、映画『乾杯! ごきげん野郎』(監督 瀬川昌治、61)に出演したこと。等である。

「ミュージック・フォー・ゼン・メディテイション(禅の音楽)」

本セッションについての邦山の言葉。「私にとってジャズも即興も初めてのことであった。トニー・スコットからは、尺八は日本の伝統的な陰旋法(都節音階)から離れず、尺八のいろいろな技法を使って存在感を出すように、ただしあまり暴れないように(以下略)」と注文されたとのこと。この場で「陰旋法」と「都節音階」を詳述する必要はない。というより幾つか複雑な問題をはらんでおり、さらっと流すしかないのだ。何が問題かというと五線譜で表記される西洋音楽と本来そうした処理によらないで演奏可能な邦楽との対立によるのだが、この件はいずれ取り上げるつもりである。ただ最低限確認しておきたいのは、トニー・スコット自身は西洋音楽の基盤によってクラリネットを演奏し、一方邦山には和音階を要求したという事実である。要するに「テイク・ファイヴ」の場合と違って邦山はドレミをやってない、ということになる。この時の即興演奏をトニーが録音し、帰国後アルバム化したのが「ミュージック・フォー・ゼン・メディテイション(禅の音楽)」“Music for Zen Meditation & Other Joys”(VERVE)であった。何故か日本盤レコードは発売されなかったが、現在輸入盤CDは比較的簡単に入手できる。
これを聴いてまず驚かされるのは、こう書くと意外に思われるかもしれないがトニーでも邦山でもなく、唯是の筝の音色である。マイルス・デイヴィスが「オン・ザ・コーナー」“On the Corner”(COLUMBIA)で使用した(エレクトリック)シタールのような響き、とでもいうか。ちょっと言い過ぎだが。もちろんジャズが電化されるのはもう少し後のことだから、トニー・スコットがそうした電気楽器あるいは電気的に増殖されたかのような響きを有する楽器を意識してのことではない。そもそもそれがずっと昔から筝の音色なのだからホントは何もヘンではない。ただ、面白いのは今聴けばこそトニー・スコットがそこに聴いていたものが何となく分かることだ。つまり彼は邦楽とジャズのフュージョンをやろうとしていたのではなく、架空の東洋的民族音楽を構築したかった。筝の音色に、シタール的な広い分布での東洋の響きをイメージしているのである。実際には電気的に増幅された音色ではなく、伝統的な筝の音がしているだけなのにトニーが「聴いた」、というか「聴きとりたかった」のが邦楽器というよりむしろ東洋全般の大型弦楽器としての筝だということが分かってしまうのだ。次に驚くこと必至なのがトニーのクラリネットで、これははっきり邦楽器の音色、さらには和旋律までもを狙っている。要するに自身の楽器クラで日本の尺八を擬態している。ジャズじゃなく「クラによる邦楽(ちゃんと西洋の五線譜に書かれていただろうが)」を志向している。そこに本物の邦楽器、邦山の尺八が加わる、という構成(ただし全てが三重奏ではないが)。ひょっとするとトニー自身は邦山の参加を切望していたわけではないかもしれない。そこは自分のクラリネットで担えばすむはずだから。つまり唯是が、どうせならクラリネットじゃなく本物を、という次第で直弟子の邦山に異ジャンルへのチャンスを与えたのではないか。チャンスというよりチャレンジか。このチャレンジは大成功と出るのだが。アルバム・リリースはトニー帰国後の64年であった。

ジャズ史的におさらいをしておくと三人がセッションを持つ前年、1961年にタイトルもズバリ「イースタン・サウンズ」“Eastern Sounds”(MOODSVILLE)というアルバムが管楽器奏者ユセフ・ラティーフをリーダーにして発表されている。「東洋音楽」という意味である。聴いてもらえば分かるがこの場合の東洋は極東の我が国じゃなく中近東で、オーボエやフルートを奏でてその雰囲気を出している。クラリネットをやっていたかどうか今はちょっと定かでない。そんなアルバムは知らない、という人でも「スパルタカス 愛のテーマ」“Love Theme from Spaltacus”が入っていると聴けばあれか、と納得するだろう。映画音楽だからやったのではなく、あのメロディーに中近東的なニュアンスを感じ取ったからラティーフは取り上げたのだ。
そのさらに前年、1960年にはジョン・コルトレーン・カルテットのアルバム「マイ・フェイヴァリット・シングス」“My Favorite Things”(ATLANTIC)が吹きこまれている。タイトルは映画『サウンド・オブ・ミュージック』“Sound of Music”の挿入歌で有名だが、この時点では映画化されていない。ブロードウェイの舞台が評判を呼んでいて、楽屋にそれをアレンジした物を売り込みに来た人がいたらしい。だから多分お金を払って楽譜を購入したわけで、舞台ミュージカル自体には何の興味もなかったはずだ。コルトレーンはこの曲をテナーでなくソプラノ・サックスで演奏して成功を収め、以後彼の最大の持ちネタにする。ジャケに載っているのが問題のソプラノ・サックスでジャズではあまり使われてこなかった楽器。例外的に知られるのはシドニー・ベシェ使用による名演「サマータイム」“Summertime”くらいか。ベシェは細かいヴィブラートをかけた音色が特徴だが、ここでコルトレーンはノン・ヴィブラートあくまで簡潔、ストレートに吹き切って彼以後のソプラノ・サックス奏者にとってのスタンダード(標準)とした。同時に注目に値するのが、このノン・ヴィブラート奏法でコルトレーンがこの名曲に、やはり中近東音楽的な雰囲気を与えていることだ。彼にとってソプラノ・サックスはいわば民族楽器の代替品なのである。後に彼はシタール奏者ラヴィ・シャンカールを通じてインド音楽に傾倒していくことになる。トニー・スコットの「ミュージック・フォー・ゼン・メディテイション」もこうした民族音楽ジャズという流れの中で捉えられるべきアルバムなのである。一方、本作は現在ジャズというジャンルを越え、「ニュー・エイジ・ミュージック」の先駆として称えられていることも特記しておこう。

ヘレン・メリル「イン・トーキョー&シングス・フォーク
引き続き邦山に幸運が舞い込んだ。彼の言葉を引こう。「『禅の音楽』で尺八がアメリカのジャズ界にセンセーションを巻き起こしたと聞いて、驚きと喜びを味わったその直ぐ後に、またしても新しい出会いが生まれた。アメリカの有名なジャズシンガー、ヘレン・メリル女史が『禅の音楽』を聴いて、何かが脳裏にひらめいたそうなのである。」彼女は日本にリサイタルのためにやってくるとさっそく邦山とのレコーディングを希望する。「ヘレン・メリルが邦山の笛で歌いたいと言っているので、とにかく尺八を持って直ぐ来てほしい」との電話でスタジオに駆け付けた彼は簡単な打ち合わせで「中国地方の子守唄」、「五木の子守唄」、ゴスペル「時には母のない子のように」“Sometimes I Feel Like a Motherless Child”の三曲を共演し十分な評価を得た。これらは現在アルバム「ヘレン・メリル フォークを歌う」で聴くことができる。この時代のメリルは近年CD化が進み、容易に聴けるようになったのはありがたい。本作も二枚アルバム・カップリングで「イン・トーキョー&シングス・フォーク/ヘレン・メリル」“Heren Merrill in Tokyo & Sings Folk”(キング)として発売された。親日家として知られるメリルはこの数年後、再婚した夫の赴任地となった日本に再びやってきて数年を過ごす。前夫との間の息子さんがギタリスト歌手アラン・メリル(本当はお父さんの名前サックスだが営業的にメリルを名乗ったそうだ)で、ザ・ハプニングス・フォーの名曲「あなたが欲しい」のカヴァー(もちろん日本語)が有名だ。
ホップ・ステップ、と来て邦山のジャズ界へのジャンプ、となったのが67年のニューポート・ジャズ・フェスティバルへの参加であった。ビッグ・バンド「シャープス・アンド・フラッツ」を率いる原信夫からの要請に答えたものである。(続く)