映画の中のジャズ、ジャズの中の映画 Text by 上島春彦
第55回 60年代日本映画からジャズを聴く その13 「ジャズじゃない」時代の八木のジャズ映画音楽
八木によるモンク理解の一端を紹介
セロニアス・モンクの音楽とその映画的系譜に関しては別に考察するつもりだが、八木のモンク理解が本項のテーマの一つとなってしまった以上、わざわざその詳細を避けて通るのもヘンかも知れない。ここでいくつかまとめて八木の言葉を引いておこう。まずは油井正一著「ジャズの歴史物語」(アルテスパブリッシング刊)のセロニアス・モンクの項目にいわく。ちょっと長いが。油井の見解自体も引用する価値大だから。

日本でいちばんモンクにしびれたのは、ピアニストの八木正生であろう。彼はいう。「モンクは大変オーソドックスなピアニストだと思います。考え方によってはバド・パウエルより古い、というよりトラディショナルなんですよ。彼のアドリブは普通のコードやっているんですかと聞いたピアニストがいましたが、そうに違いないのです。例えばコードを弾く場合でも、下と上の音だけおさえて真中の音を抜かすとかそういうやり方で独特のモンクス・ミュージックが生まれるわけです。つまり考え方はオーソドックスなのですが、やり方がユニークなんです。」この観察は鋭い。モンクの本質はトラディショナルな基盤の上にあるので、彼自身、フリーの前衛を目指したわけではない。もし彼が、フリー・ミュージシャン(「フリー・ジャズ」のプレイヤーという意味。上島注)に大きな影響を与えたとすれば、「可能性の暗示」のようなもので、影響をうける側の勝手である。
モンクのミストーンといわれるものについて、八木正生はいう。「彼を弁護するわけではありませんが、彼の場合はミストーンとはいえないミストーンがあると思うのですよ。例えばいくつかの音を一緒に押えて手を離すとき、一つの音だけを残すというやり方をするのです。ちょっときくとミストーンのように聴えるのですが、モンクはこれをよくやるのです。最初はぼくもミストーンかと思っていたのですが、実はモンクが意識的にやっているのだということに気がついたのです。たしか『セロニアス・ヒムセルフ』“Thelonious Himself”(Riverside)というリバーサイド盤の《アイ・シュッド・ケア》でそういう弾き方がきけます。」

引用の中に「モンクス・ミュージック」“Monk’s Music”(Riverside)、「ユニーク」“Unique”(Riverside)と二枚のオリジナル・アルバムのタイトルを織り込むのもさすが。
もう一つ紹介したいのは、「アーティストリー・イン・ジャズ」というコンピレーションCDシリーズの一枚「セロニアス・モンク」篇“Artistry in Jazz, Thelonious Monk”(ビクター音楽産業)に付した八木の解説である。これは選曲からして八木によるもの。コンセプトは「リバーサイド・レーベルでの153テイクの中からCD1枚分の曲目を選び出す」ことであり、その十曲全てをモンク・オリジナルでまとめてある。
八木は述べる。「モンクのピアノ奏法で他の人と大きく異なる点は、彼が自己の叩き出した音から生じる音のうねりや倍音に身を浸し、耳を澄ますところにある。」以下「特異な和音感覚」や、「彼の演奏するブルース」が「最もブルースらしいブルースで、よくその精神を体現したものになっている」こと等いくつかの指摘に続けて、モンクによるジャズが奇をてらったものではなくジャズの音楽的伝統にストレートに連なるものであることを強調する。「『リズマニング』もその一つだが、いかにもモンクらしいものになっている。ビー・バップの和声の最大の特徴である減5度音をあからさまに臆面もなく鳴らして、これだけ効果を挙げている例は非常に少ない」と。そして最後に「一部で言われているモンクについての伝説を正しておきたい」とした上でこう記している。

モンクはよく隣合ったキーを同時に弾くことがある。本当はその二つの鍵盤の間の音程が欲しいのだが、ピアノは平均律でチューニングされているので、仕方なく半音でぶつかった二つの鍵盤を叩いてその間の音の代用にするという、まことしやかな伝説がある。(略)彼が二つのキーを弾く奏法を多用する真の理由は、短2度という不協和な音程から生じる複雑な倍音を欲していたからに違いない。倍音に対しての彼の敏感さは他の奏法からも充分に窺い知ることができるが、おそらく常人以上に倍音を聴きとることができたのだと考えられる。デューク・エリントンとかセロニアス・モンクのような人達は倍音の可聴範囲がとても広く、我々では聴き取れない倍音の世界に遊ぶことができたのだと思う。それでなければ、エリントンのあの複雑なサウンドやモンクの特徴的な奏法が生まれてくるはずはない。それは天才のみが持ち得る特権かもしれないが、彼らが我々の聴き得ない音を聴いていたとすると、我が身の凡愚を嘆くのみである。

これはジャズ批評家による解説では絶対的に「あり得ない」文章だ。ピアノの演奏法に深く立ち入った内容だから、ということももちろんあるが、普通ライナーノーツで人は「我が身の凡愚を嘆」いたりはしない。こういう書き方もまた批判の対象となっておかしくないだろう(分析の質の問題ではなく、あくまで書き方への批判である)。だが既に述べたように八木正生がこういう書き方をする時というのは、モンクに全面的に敗北してはいるのだが、その敗北もまた、彼のある音楽に対する様々なスタンスの内の一つとしてあるわけだ。

つまり「モンクを弾く演奏家」としての八木が全面的にモンクを前に敗北したとしても、彼は同時に「モンクを弾かない演奏家」でもあり、さらに言えば「ジャズを出来ない日本人としてあえてジャズをやる演奏家」でもあれば、ジャズに「依拠しない映画音楽家」でもあるのだ。そしてもちろんジャズに「依拠した映画音楽家」でもある。言うまでもないが。八木の音楽的存在の「捉えにくさ」とは、選択肢が沢山ある多面的な才能の持ち主というよりもむしろ、それぞれの才能の限界を知って様々な異なる領域に絶えず逃れていくかのような身振りの、亡命者的なあり方にこそ存するのである。