コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 鈴木英夫〈その16〉インタビュー:宝田明   Text by 木全公彦
メロドラマと風刺喜劇/千葉会
『旅愁の都』
――『旅愁の都』(1962年)はいかがでしたか?

宝田『美貌の都』、『愛情の都』に続く「都」シリーズですね。これは司君の代わりに星由里子が出ていますが、どこかまだ背伸びした感じがしますね。僕は主題歌も歌ったんだけど、ラブ・ロマンスはもっと甘く撮らなきゃだめなのに、鈴木さんはテレがあるのか、真面目なのか中途半端でした。

――沖縄ロケがありましたが。

宝田2月でしたが天候が悪くって。曇天続きで、海もあまりきれいじゃなかった。

――前の2作は松林和尚と杉江さんでしょう?

『やぶにらみニッポン』
宝田比べちゃうと鈴木さんは全然ダメ。器用じゃないんだね。これじゃヒットしないよね。大体題材が鈴木さん向きではないんじゃないの。次の『やぶにらみニッポン』(1963年)というのもよくなかったな。まずジェリー伊藤の芝居がよくない。彼は舞台でも菊田一夫さんに随分怒られたんだよ。それと山本直純さんの音楽もよくない。テンポも悪いし、コメディとして未消化ですね。こういうひねったコメディは岡本喜八ならもっとうまく料理したんじゃないかな。

――おっしゃるとおりです。喜八さんならテンポも早くって風刺も効かせて。

宝田鈴木さんも忸怩たるものを感じながら撮っていらしたんじゃないでしょうか。鈴木さんは大映にいらした頃はサスペンス映画で名を挙げた方なんでしょう?

――そうです。『蜘蛛の街』(1950年)ですね。でも大映から東宝に引き抜いたのが藤本さんだったんで、藤本さんの下では、藤本さんがスリラーとかサスペンスは嫌いなのでそういうのは撮らせてもらえず、もっぱら東宝本流の明朗青春ものやサラリーマン喜劇やメロドラマを撮らざるを得なかった。

宝田そうかあ。藤本さんが引っ張ったんじゃ仕方ないですね。やっぱり派閥っていうのはありましたから。僕はずっーと藤本さんの傘の中にいて育ててもらってから、藤本さんと成瀬(巳喜男)さんと千葉(泰樹)さんには足向けて寝られない。僕はだから黒澤(明)さんの映画には出たことない。黒澤さんはまた違う派閥だから。それなのに黒澤さんとはゴルフをやったり、一緒に食事をしたりしたけど、それはみんなが逃げるから僕が引っ張られただけ(笑)。いちばんやりすかったのは千葉さんですね。僕と藤木(悠)が千葉会の助さん格さんみたいなもので、海外に行っても三人で飲み歩いて。千葉さんが亡くなったあとも千葉会はずっとのちのちまでやってました。

――千葉会はどなたがはじめたんですか?

千葉泰樹と団令子
宝田もちろん千葉さんがご存命のときからはじまったんだけど、僕と藤木が音頭をとってね。俳優さんもスタッフさんもみんな集まって。ほかの監督ではそんな会はなかったですよ。千葉さんだけです、そういう会があったのは。人望があったんですね。千葉さんは温和だし、陽気で社交的な人だし、ジェントルマンだし。監督のキャリアだって古いんでしょう? 台本をもらうとすべてカット割りがしてある。頭の中でモンタージュができているんですね。だから仕事も早い。器用だしヒットメイカーだし、あの才能は他の監督では真似できません。