コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 Jフィルム・ノワール覚書⑪ 東映ノワール 関川秀雄の場合   Text by 木全公彦
関川秀雄といえば、東横映画『きけ、わだつみの声』(1950年)や、独立プロで『混血児』(1953年)、『ひろしま』(1953年)、『狂宴』(1954年)など、反戦映画で知られる社会派の左翼監督であるというのが大方の認識だろう。しかし本当にそうだろうか。

関川秀雄のノワール
新潟県に生まれた関川は、入学した新潟の高校で起きたストライキをきっかけにして高校を退学し、上京して東宝の前身であるPCLに入社する。黒澤明と同期である。主に島津保次郎と山本薩夫に就き、1944年、東宝の記録映画『大いなる翼・三菱重工業篇』で監督に昇進。戦後すぐに東宝争議が起こると、CIEのデヴィッド・コンデの肝入りで組合運動促進映画『明日を創る人々』(1946年)を黒澤明、山本嘉次郎と共同監督する。この作品が関川にとって初めての劇映画になる。黒澤はこの作品を自分の作品として認めおらず、さりとて戦時中は国策映画を撮った山本嘉次郎が積極的に関与したとも思えず、作品を実質的に主導したのは組合の闘士として争議の中核にいた関川ではないかと推察される。

その後、激化する東宝争議が仮処分執行で組合の撮影所撤去という結末を迎えると、関川は東宝を離れ、理研映画で数本映画を監督する。この時代の作品は現存していない上、資料も少なくてそれらがどのような映画であったかはよく分からない。そして1950年、東映の前身である東横映画と契約。その最初の作品が『戦慄(スリル)』(1950年)という、市川右太衛門主演のギャング映画であることは興味深い。同年、東京大学協同組合出版部によって刊行された「日本戦没学生の手記・きけ わだつみの声」の映画化で、戦争末期のビルマ戦線を舞台にした反戦映画『きけ、わだつみの声』を監督。これが予想外に大ヒットとなって、いっとき累積赤字で存亡の危機にあった東横映画を救う。その後、終戦時の玉音放送レコードをめぐるクーデター未遂、いわゆる宮城事件を最初に題材にした『終戦秘話 黎明八月十五日』(1952年)などの作品を監督したのち、1953年に一時東映を離れ、前述したように独立プロで左翼社会派の問題作を次々と監督する。

ところがいっとき隆盛を極めた独立プロ運動が鎮静化する1950年代半ばになると、東横映画改め東映と再契約し、東映教育映画部を振り出しに、東映東京の劇映画を代表する職人監督として腕を振うことになる。もちろん東映でのフィルモグラフィには米軍の基地問題を取り上げた『爆音と大地』(1957年)のようないわゆる社会派の作品もあるが、『少年探偵団 かぶと虫の妖奇』(1957年)のような子供向のプログラム・ピクチュアも監督するなど、左翼監督としてのこだわりは特にないように思える。一応、東映時代の代表作は『大いなる旅路』とその姉妹篇『大いなる驀進』(共に1960年)ということになるだろうが、国鉄職員の職務と家族愛を描いた良心的な佳作ではあるものの、『きけ、わだつみの声』や『ひろしま』のような強烈なメッセージ性は後退している。



そういう彼であればこそ、Jフィルム・ノワールも会社の要請があれば、特にためらうことなく撮ったであろうことは容易に推察できる。事実、東映時代には『警視庁物語』シリーズ2作を含めて、比較的多くのJフィルム・ノワールを監督している。関川に限らず、おおよそギャング映画やスリラー/サスペンス映画とは無関係のようにみえる、同じく左翼系の今井正や山本薩夫でさえも、前者は東映『白い崖』(1960年)、後者は大映『スパイ』(1965年)といったJフィルム・ノワールの系譜につながる作品を撮っていることを考えると、社会の矛盾を摘出・告発する社会派の映画と、社会や人間の闇を描くフィルム・ノワールとは案外親近性があるのかもしれない。

『警視庁物語』シリーズで関川が手がけた2本の作品については前述したが、シリーズを通して見ると、関川の役割はシリーズのカラーを決定的にした村山新治の登場までの橋渡し的存在であるように思える。同時に、東映東京という会社の立場からすれば、事実上の時代劇解禁によって隆盛を迎える京都撮影所が製作する時代劇の併映作品として、現代劇のアクション映画は必要であったので、結果的にこのすぐあとに石井輝男が牽引したアクション描写を主軸にしたポップでモダンなギャング映画路線が確立するまでのつなぎとして、片岡千恵蔵のギャング映画とはひとあじ違った、重苦しいスリラー/サスペンス映画が製作される土壌を作った。そんな中、関川がこのジャンルの映画を多く手がけているのは、彼の左翼としての思想的立場よりも器用な職人的手腕を会社側が重宝したからに違いない。

今回はその中から3本の作品を取り上げる。