コラム『日本映画の玉(ギョク)』Jフィルム・ノワール覚書⑥ 新東宝の衛星プロと日米映画   Text by 木全公彦
浅野辰雄について
“犯罪捜査"シリーズの第1作から3作目まで監督を担当した浅野辰雄は、先述した『恐怖のカービン銃』の脚本を執筆した人である。1956年に自身が代表の浅野プロダクションを設立している。 浅野の略歴をざっと記す。戦前は芸術映画社で文化映画の監督し、満映に出向。戦後は朝日映画社に転じ、民主化を主題とした『君たちは喋ることができる』(1946年)を監督したのち(未公開)、1949年に朝鮮総連をバックにする民衆映画社に参加し、『解放朝鮮を行く』(1947年)を監督するといったキャリアは、左翼映画人そのものである。実際、戦前には左翼活動で逮捕歴があるらしいし、1948年頃は東宝の助監督を務め、左翼の論客として今井正をやりこめたという(Wikipediaより「浅野辰雄」の項目。2016年3月22日閲覧)

一方で、『風の噂のルリ』(1952年、島耕二監督)の脚本を書き(須崎勝弥と共同)、『わたしの凡てを』(1953年、市川崑監督)の脚本に参加し(梅田晴夫・市川崑と共同)、その間、ジョセフ・フォン・スタンバーグの『アナタハン』(1953年)ではスタンバーグともに脚本を担当。さらにその頃、CIE映画の製作をしていた田口修治(『アナタハン』の監督補佐でもある)のシュウ・タグチ・プロが製作した記録映画『台風の眼』(1954年頃)でも脚本(岩下正美と共同)を執筆した。

以降の劇映画では、日活で『探偵事務所23・銭と女に弱い男』(1963年、柳瀬観監督)の脚本(中山耕人と共同)、『猟人日記』(1964年、中平康監督)の脚本(単独)、『渡世一代』(1965年、斎藤武市監督)の脚本(田辺五郎と共同)、『ある少女の告白 純潔』(1968年、森永健次郎監督)の脚本(単独)……という節操のない、わけのわからなさは、『恐怖のカービン銃』や日米映画の“犯罪捜査”シリーズ、さらにそのあとのピンク映画、1970年代以降の文化財記録映画へ至るまでのキャリアを加えると、ますます一貫性に欠け、あらゆる意味で広範囲に及ぶフィルモグラフィから見える人脈も思想もまったく謎というほかない。さらにウェブ上では同姓同名の大映のプロデューサーとの混同が見られ、ますますわけがわからなくなっている。

Wikipediaによると、日本共産党の機関紙「前衛」1981年6月号に「私の余暇」というエッセイを寄せているらしいから、党員であることは確かのようだ。もしかしたら1950年に映画会社からレッドパージされた可能性もあるが、それならばなおさら組合脱退組が設立した新東宝で、犯罪捜査映画を監督するのも不思議である。ともあれ、日米映画で浅野が監督した3作品はいずれも製作に浅野の名前があることから、浅野プロダクションが製作を請け負ったと考えられるが、とりあえずこれ以上は今後の課題にして、“犯罪捜査”シリーズを個別に触れておこう。