コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 テレビ・ディレクターが撮ったピンク映画   Text by 木全公彦
奇妙な魅力の青春映画
ひとことに言って、なんとも形容しがたい奇妙な映画、というほかない。土俗と都会、疎外された若者の刹那的な愛と性などの諸主題が、インパクトの強い映像とサウンドによって、表現されていることは断片的には分かるが、一度見ただけでは「変な映画を見た」という印象で、人物関係がよく把握できない。実際、公開当時はただのエロ映画と思って見に来た客から「二度見ないと分からない難解な作品」と、一部の客に酷評されたという(「昭和桃色映画館」、鈴木義昭著、社会評論社、2011年)。

実際、完成した作品を見たときの今野の感想は、
「かったるいなァと思ったことを記憶しています。テンポとか、ストーリーの展開とか。人物像の造形もステロタイプのところがありました」(出典②) と反省をこめて、回想している。

田舎から大都会に出てきた青年の屈折と、彼とは正反対にバイタリティで都会を乗り切って体を売って生活する少女が出会い、恋をし、周囲と軋轢を起こすという筋立てはよくあるものだろう。だが、主人公の青年の指の欠損が彼の性的コンプレックスの源になっているというところまではいいとして、いたるところに肉体欠損または切断のイメージが氾濫し、複雑に絡みあった因縁話、不能、または中年女が青年に渡すリンゴ、青年が持ち歩くナイフなど、フロイドのモチーフがあちらこちらに横溢していて、少々強引な作為性を感じる。だが意外にも今野自身は、
「フロイドは好きではありませんでした。日本人の意識構造をフロイド流に解釈しても的外れだと思っていました」(出典②) という。ふーむ。

しかしながら、コンプレックスを根っこに持つ青年が土俗的な因縁に翻弄され、痛切な青春の地獄巡りをしていく過程には、随所に強い印象を残す場面も少なくない。たとえば、和太鼓のリズムやインチキ宗教の乱交パーティの夢幻的映像、真紀がリンチにあうくだり、終末部の廃村での若い二人の岩礁での幸福感に満ちた戯れなど、時折はっとするイメージがあるのも確かで、奇妙な魅力がある作品だと思える。

田舎から東京に出てきた男女が都会になじめず、愛し合う二人は田舎に帰るが、そこはとっくに廃村になっていたというモチーフは、翌年のピンク映画史上の名作『雪の涯て(青春0地帯)』(1965年、新藤孝衛監督)でも繰り返されることになるだろう。