コラム 『日本映画の玉(ギョク)』Jフィルム・ノワール覚書⑤『蜘蛛の街』の登場   Text by 木全公彦
『蜘蛛の街』場面写真2
鈴木英夫の演出について
当時の批評を読むと、セミ・ドキュの効果やスリラー演出の手腕を誉める一方、いささかご都合主義の展開や説明不足を指摘するものが多い。実際、六郎を利用する倉崎一味と殺される真田局長との関係がよく分からないし、彼らがどのような不正に手を染めたかも説明されない。倉崎一味が根城にするバーのママ(千石規子)は真田局長を拉致し殺したことで倉崎たちを強く非難し、最後には殺されてしまうが、彼女と真田局長の関係もまるで分からない。そのあたりはプレスシートの梗概を読むと明らかにされているので、77分という完成尺が平均よりもやや短いということを考えると、どこかの段階で削除された可能性が高い。またプレスシートの梗概では、後半の展開が実際の映画と少し違っており、六郎の子供は倉崎一味に誘拐され地下室に監禁されることになっている。最後の大捕物もカーチェイスがあり、かなり派手になっている。これらは予算がかさむということで現行に変更されたようだ。

だがそのような説明不足やご都合主義を考慮しても、鈴木英夫の演出はセミ・ドキュやスリラー効果に冴えを見せ、同時代の大映大泉撮影所の主流が、古色蒼然とした母ものや陳腐なメロドラマで、活劇やスリラーでさえ前述の泥臭い大映スリラーであったことを考慮すると、本作は突出したものであることが分かる。鈴木がこの作品で披露した都会の断面を鮮やかに切り取るセミ・ドキュ・スタイルは、その後『殺人容疑者』(1952年)でさらに徹底されることになるし、平凡な庶民が犯罪に巻き込まれるというプロットは『彼奴を逃すな』(1956年)に引き継がれることになる。

さらに目をひくのは、主人公は、最初はサンドイッチマンとして、次にアリバイ作りの替え玉として、次に監視対象として、終始一貫「見られる存在」であるのだが、「見られる」ことの意味を変容させながら、次第に追いつめられていく様子のただならぬ緊迫感を描き出す巧みさである。実際、精神的にすっかり参ってしまった六郎が鶴代の提案で多摩川園に一家で行き、つかのまの息抜きを楽しんでいると、倉崎一味の配下が執拗に六郎たちを監視しているのをふいに発見する場面で、平穏で幸福そうな空気が一瞬で不穏な雰囲気に覆われていく場面はすばらしいとか言いようがない。それに続く場面で、その帰途、多摩川の土手を歩く六郎たちの後を配下が尾行してくる場面でも、何もないだだっぴろい土手の上が険呑な空気に覆われていくところの描写がなかなかうまいのである。

『彼奴を逃すな』
また音の使い方にも触れておきたい。鶴代が息子のために作ってやる瓶に水を入れたドレミグラスの奏でる音を始めとして、心理的緊張を高める効果に音が実に有効的に使われていることである。倉崎一味の配下が六郎のアパートの鍵をこじあけようとして針金を突っ込んでがちゃがちゃさせる音、息子が奏でるハーモニカ、警官隊に追いつめられた村越(伊沢一郎)がアパートに押し入るときに子供が遊ぶおもちゃの列車の音。また同じ場面で階上の部屋に住むカップルがかけるレコードが効果的に使われており、緊迫した場面にロマンチックな音楽を現実音として流すという、黒澤明が好んで使う対位法(コントラプンクト)になっている。これらの音の演出は、『彼奴を逃すな』でも再現されることになるだろう。

音といえば、『ゴジラ』に似た伊福部昭の音楽は少々アクが強くすぎて、少々しつこい。やはり鈴木には東宝時代にコンビを組んだ芥川也寸志の洗練された音楽の方が相性のよいように思う。しかし、それでも何度か挿入される「エリーゼのために」のモチーフはなかなか効果的で、悪くない。実際、悪夢のような事件が解決して、一夜明けた朝、一転してすがすがしい顔を見せる一家の姿に「エリーゼのために」が流れる終幕は感動的である。

鈴木英夫はこの一作で大映大泉撮影所の有望な新人として一躍脚光を浴びる。しかし折悪く老舗の映画雑誌「キネマ旬報」が休刊している時期にあたり、この映画の詳細なデータや批評は、後年の人に広く知られることもないまま、忘却の彼方に消えていった。鈴木とて、探り当てたスリラー/ミステリ映画というジャンルの鉱脈をその後会社から与えられるはずもなく、大映時代は本人も不本意な作品を撮らざるを得ない。鈴木がスリラー/ミステリ映画の分野で本領を発揮し、Jフィルム・ノワールを代表する名匠となるまでは、まだ時間が必要であった。



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