コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 ② 黒澤明の役割   Text by 木全公彦
『野良犬』のセミドキュ・スタイル
ところで読書家であった黒澤が、若いときからロシア文学を中心とする東西の古典文学に親しむ一方、ミステリの愛読者であったことはよく知られている。黒澤の助監督と務めたことのある堀川弘通によれば、黒澤本人よりも喜代子夫人(元・女優の矢口陽子)のほうがミステリ小説の愛読者で、その影響もあるということだった(私の堀川弘通へのインタビューに拠る)。黒澤の最も好きなミステリ作家は、ジョルジュ・シムノン。そしてシムノン風の社会犯罪映画を作ろうと試みたのが、黒澤の最初のミステリ/サスペンス映画『野良犬』である。

黒澤によれば、『野良犬』はまず小説として書かれたという。ところが調べてみると、現在読むことのできる黒澤明の手による小説『野良犬』は2種類ある。ひとつは「映画速報」1949年の「野良犬特集号」。もうひとつは「冒険活劇文庫」1949年10月号。内容は同じだが、長さも文章も異なる。どちらが黒澤と菊島隆三共作のシナリオ『野良犬』の底本になったかは不明である。ただしこの小説をシナリオ化するには10日ぐらいと踏んでいた当初の予想を遥かにオーバーし、シナリオ作りに難渋した結果、50日以上の日数がかかってしまったという。

『野良犬』には黒澤作品を特徴づける要素がいくつもあるが、それらについては研究書などを参考にしてもらうとして、その後の日本映画史におけるミステリ/サスペンス映画に与えた影響についてだけ指摘しておきたい。

DVD『Gメン対間諜』

DVD『影なき殺人』


『野良犬』ポスター

『野良犬』
第一に、『野良犬』がこの頃ちょうどブームをよんでいたハリウッド産の犯罪セミ・ドキュメンタリー映画をもっともうまく自己薬籠中のものとして取り入れていることが挙げられる。セットで撮影するのではなく、事件が実際に起きた場所で極力ロケして、まるでドキュメンタリーのような感じを与える犯罪セミ・ドキュメンタリー映画の第1号は、『Gメン対間諜』(1945年、ヘンリー・ハサウェイ監督)といわれる。実際に起きたとされる、第二次世界大戦中のアメリカを舞台に、機密情報をめぐるナチス・ドイツのスパイ組織とFBIの諜報戦を、ロケーションのみならず記録映像も交えて生々しく描いた刑事ドラマである。プロデューサーはルイ・ド・ロシュモン。ロシュモンは20分のニュース映画「マーチ・オブ・タイム」(1935~1951年)の製作者だった人。このニュース映画がユニークだったのは実際の映像と再現フィルムの混合によって作られている点で、『市民ケーン』(1941年、オーソン・ウェルズ監督)の冒頭のニュース映像でもパロディ化されている。

『Gメン対間諜』の公開日は1945年9月1日。だが日本は少し遅れて1951年3月27日公開になり、日本で最初に公開されたこのジャンルの作品は、1947年9月2日封切りの『影なき殺人』(1947年、エリア・カザン監督)になった。これもロシュモン製作。以降このジャンルは、同時期に日本にどっと入ってきたイタリアン・ネオリアリズモの衝撃とともに、日本映画にもセミ・ドキュメンタリー(以下セミドキュと略す)の隆盛をもたらすことになる。その決定打となるのが、1948年12月28日日本公開の『裸の町』(1948年、ジュールス・ダッシン監督)だった。プロデューサーは、ロシュモンと並ぶこのジャンルの第一人者マーク・ヘリンジャー。

映画評論家の双葉十三郎によれば(「映画春秋」1950年1月号)、こうしたセミドキュの影響を受けた日本映画として、『流星』(1949年、阿部豊監督)、『地下街の弾痕』(1949年、森一生監督)を挙げて、ダメ出しをしているが、大阪府警が協力した後者はともかく、前者はラストで勝鬨橋が開く場面が見られるというだけの今日的な価値しかない作品で、ロケで撮った場面もその場面だけであとはセットというお粗末な映画だった。そして双葉がこの2作をクサした一方で、その最初の成功作としてその意義を認めたのが黒澤の『野良犬』なのである。

セミドキュの例を具体的に挙げれば、拳銃を掏られた三船敏郎扮する刑事が拳銃の売人を探してヤミ市を歩き回る場面(三船の後ろ姿の一部は監督補佐であった本多猪四郎のスタンドイン)。今見ても復員服に身を包み、歩き回る足元やギラギラした目のクロースアップ、雑多なヤミ市をモンタージュしたこのシークエンスは、異様なほど長い。またニュース映像を巧みに配合した野球場の場面など。

第二に、拳銃を掏られた三船敏郎扮する若い新人刑事と、志村喬扮する年長の刑事のコンビが、その後の刑事映画のフォーマットを作ったということ。元来、刑事はコンビで活動するものだが、それまでの刑事映画でここまで人間くさく、絶妙なコンビネーションを巧みに描いた作品はなかった。とくに志村喬の老刑事がスリの女(千石規子)を取り調べる場面で、アイスキャンディーを差し出す場面は絶品で、黒澤明を敬愛するジョン・ミリアスが監督デビュー作『デリンジャー』(1973年)で取り調べするベン・ジョンソンにそのまんま真似させているほどだ。

もっともこの『野良犬』におけるコンビは、黒澤映画に繰り返し登場する“師弟のモチーフ”のひとつともいえるのだが、セミドキュの全盛時代を経て、今日テレビでもおなじみになった刑事ドラマの源流になったことはほぼ間違いない。