コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 ② 黒澤明の役割   Text by 木全公彦
戦後の日本映画におけるミステリ/サスペンス映画の歴史を考える上で、黒澤明の存在を抜きには語れない。黒澤明といえば、研究書や関連書籍もたくさん出ているし(上島春彦著「血の玉座」は必読!)、すでに改めて書くべき新しいことは何もないが、ミステリ/サスペンス映画に大きな足跡を残した黒澤がすべての出発点であったことを確認しておきたい。

黒澤明のフィルモグラフィを瞥見して、ミステリ/サスペンス映画に分類される作品といえば、『野良犬』(1949年)、『羅生門』(1950年)、『悪い奴ほどよく眠る』(1960年)、『天国と地獄』(1963年)が挙げられる。また、語りのスタイルが中途を飛ばしていきなり主人公の葬式場面になり、回想による展開となるため、ミステリな要素が加わる『生きる』(1952年)のような作品や、シェークスピアの「マクベス」を翻案した『蜘蛛巣城』(1957年)のように不穏な雰囲気に包まれたオカルトテイスト濃厚なスリラーのような作品もある。

今どきの流行であるフィルム・ノワールという言葉に言い換えてみると、『羅生門』も『蜘蛛巣城』も、ノワールの語源である「黒映画」と言い方がぴったりするし、黒澤の敬愛するロシアの文豪ドストエフスキーは、文学史上最大のノワール作家だろう。長大な「カラマーゾフの兄弟」はともかくにしても、黒澤が『白痴』(1951年)を映画化したのは、黒澤作品の主題のひとつである分裂した自我を体現した作品だったからに違いないが、若いころ非合法な社会主義活動にも参加したことのある経験を生かして、ドストエフスキーの「悪霊」を映画化しなかったのはかえすがえすも残念だと個人的には思っている。