コラム『日本映画の玉(ギョク)』谷口登司夫が語る三隅研次   Text by 木全公彦
今回は大映京都の編集マンとして長らく活躍された谷口登司夫さんにお話しを伺った。谷口さんは森一生監督の作品や三隅研次監督の後期の作品の編集を担当され、特に信任の篤い編集マンであった。話は森一生・三隅研次両監督のことから監督としての勝新太郎の話にまで及ぶ。

――大映に入社されたあたりから聞かせてください。

三隅研次監督

『手をつなぐ子ら』ポスター
谷口いちばん上の姉が大映京都撮影所の経理だったんで、撮影所には子供の時分から出入りしてたんです。そのうち子役でちょこちょこ映画に出演するようになって。稲垣浩さんの『手をつなぐ子ら』(48年)や森一生さんの『山猫令嬢』(48年)なんかに子役で出た。それで大学に行く予定だったのが、友だちが撮影所を見学したいというから連れていったら、顔なじみのおじさんに声をかけられて、そのまま身体検査をすることをなってね。高校のときから器械体操をやっていたから、その頃は割合に筋肉質な体だったんで、お医者さんが体をポンと触って「照明部やな」って。それで最初は照明部だった。

――体つきだけで。

谷口ええも悪いもあらへん。しょうがないから1年ぐらい照明部におったのかな。中岡源さん(中岡源権)なんかがチーフで、その下っ端ですわ。

――それがどうして編集に。

谷口いやもう辞めようと思ってね。3回ぐらい事故起こしたんです。上からライト落としてね、もうこれはやっていけんと思って辞めようと門のところを出ようとしたら、編集の人が声をかけてくれて、「今、編集の人が足らんから、頼むから来てくれ」と言われてつかまったのが縁ですわ。

――当時編集部は何人ぐらいいらしたんですか。

谷口20人ぐらいはいたですかね。

――女性は?

谷口いました。4人か5人かな。徹夜が続いても女性も同じ扱いですよ。