コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 近藤明男が語る三隅研次・増村保造のことほか   Text by 木全公彦
『雪の喪章』のこと
『雪の喪章』ポスター

『巨人 大隈重信』ポスター
――それが大学1年生のときで。

近藤大学1年の冬ですね。12月にクランクインして暮れの30日、31日も夜遅くまでやって、翌年の1月4日か5日からまた再開して、封切りが1月14日でしょう? ギリギリまで撮影していた記憶があります。正味30日はかかっていると思います。そのへんは落ち目になっている頃といえども、今とは違う。大映が潰れてからは増村さんが藤井浩明さんの行動社で撮った『大地の子守歌』(76年)が27日、『曽根崎心中』(78年)が21日ぐらいで撮っている。宇崎さんのスケジュールが2週間しか空いてなかったから。

――当時の大映では「東の増村、西の三隅」と呼ばれていたそうですね。

近藤京都でシリーズものなんかをローテーションで撮っていた監督の中でも、三隅さん、田中徳三さん、池広一夫さんというのが三羽烏という感じですね。みなさん、東京にきて現代劇も撮っているけど、その中でいちばん年長で、リーダー的なところがあったのが三隅さんでした。『雪の喪章』は三隅さんにとって『巨人 大隈重信』(63年)に続く2本目の東京作品ですね。

――撮影所以外の、たとえば学生の間では三隅さんはどう評価されていたんですか。

近藤う~ん、僕は早稲田の映研もすぐ辞めちゃったから。そのあとテレビ芸術研究会に入ったんだけども、そのテレ研にのちに松竹に入る前田陽一さんと広瀬襄さんという方が先輩にいた。あんまり学生の間で三隅さんの名前が挙がることはなかったんじゃないかな。

――ゴダールと大島渚の時代ですからね。

近藤そうそう。撮影所の監督だと増村さんとか鈴木清順さんとか。深作欣二さんも頭角を現してきた頃ですね。あんまり三隅さんの名前は出なかったなあ。まあダントツに人気があったのはゴダールと大島渚ですよ。

――京撮の人が東撮にたびたびいらして撮るのはノルマみたいなものがあったんでしょうか。

近藤どうかな。僕はアルバイトだったからそのへんの事情はよく分かりません。だけど想像するにお互いの監督交換で撮影所に刺激を与えて活性化しようとしたんじゃないですか。増村さんも『好色一代男』(61年)とか『華岡青洲の妻』(67年)とか時代もののときは京都で撮っていますね。だからノルマというより題材が先にあったんじゃないですか。

――東京の監督が京都で撮る場合よりも、京都の監督が東京で撮る場合のほうがいい作品が少ないですね。

近藤京都は時代劇ですね。約束事があって様式美を重んじる時代劇と現代劇では勝手が違うのかな。スタッフの慣れの問題もあるんでしょう。

――『雪の喪章』はまったくの現代劇ではありませんが、三隅さんは撮りにくそうだったとか、そういう感じはありましたか。

近藤僕はまだ大学1年生で最初の仕事ですからよく分からないんですけども、そういうことは特になかったと思います。大映は比較的監督を大事にする会社だから、みんなが監督を尊敬し、大事にしてたとは思います。

――キャメラマンの小林節雄さんとはどうでしたか。

近藤『巨人 大隈重信』に続いて、『雪の喪章』が2本目ですね。そりゃ京都でいつも組んでいる牧浦地志さんみたいにはいかないと思うし、小林さんも増村さんのように阿吽の呼吸で通じる仲ではないから、多少遠慮もあったと思います。でも京都からトップの監督が来るんだから東京からトップのキャメラマンを出して組ませているわけで、ちゃんとそれなりに遇していたとは思います。

――準備期間から参加されたんですか。

近藤いや、僕が入ったときはもう撮影に入っていました。