コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 俳優ブローカーと呼ばれた男【その四】   Text by 木全公彦
『叛乱』クランクイン
1953年10月5日、調布多摩川ロケからクランクイン。300人の兵隊のエキストラを集めて中隊の演習場面から撮影を開始した。文字通り、新東宝が社運を賭けた超大作の始動である。

〈構想一ヵ年、制作費一億、出演延人員二万人、主要配役七〇名、二十二ステージを使用した広大セット、人造雪製作費三五〇万、豪壮な規模と凄烈の気魄を叩き込んで完成した日本映画未曾有の巨篇!〉(『叛乱』パンフレットより)

佐分利の演出は、リアリズムを基本に、撮影は中抜きなしの順撮り。俳優の立ち振る舞いについては細かい指導はしない。これは自身が俳優でもあるため、役を演じる役者のリズムを重視しているからだろう。

〈小道具氏の言に依ると、小道具にはあまりうるさくは云わないのだが、注文を出した小道具が来ないと、それは決して泣かないで待つと云う。(略)一般に佐分利監督はカットが細かく、所謂中抜きなどは絶対にしない監督だと云われている。佐分利監督が演技者に出す注文は、①自然のままに、②私生活を思い出してやってほしい、③演技に法則はない、と云う事で俳優としてシナリオの中の一人の人物になりきっていれば自然に演技の方もついて来ると云う寸法、わざとらしい芝居を大変にいやがる人で、所謂オーバーな演技はきらいである。それで何回もやるとかえって芝居がかって来るというので、テストは大抵二度程だと云う。〉(「『叛乱』の撮影クライマックス 佐分利信監督の演出拝見」、前掲「映画ファン」所収)

製作費に350万円かけたという人造雪は、「日刊スポーツ」1953年11月1日付が〈積もった雪は一番下を綿で形をつけ、その上を石灰でおおい、輝きを出すために樟脳を散らす、窓などに積もった雪は塩を使う、降ってくる雪には羽毛の綿雪を降らしている〉と報じ、羽毛が俳優の鼻や口に入り、思わずくしゃみをしてNGになるというアクシデントが多発したという。もちろんこれほどまでに大がかりな人造雪のセットが組まれたのは、戦後最大の規模である。