コラム『日本映画の玉(ギョク)』俳優ブローカーと呼ばれた男【その参】   Text by 木全公彦
新国劇
不足する人材の中で、最も急を要するのが俳優と監督だった。特に俳優は映画の顔である。自前のスタアを育てることと平行してすぐに使える俳優が、それもできれば五社の息のかかっていないユニットで活躍する俳優が必要だった。

日活は製作を再開するにあたって、何本か時代劇を製作しようと目論見、このプロデュースを星野に任せた。むろん、日活に時代劇専門の俳優はいない。となれば、ほかから引っ張ってくるしかない。星野はカバンに現金を詰め込むと、京都に向かった。松竹下加茂の高田浩吉を始めとして、時代劇スタアに話を持っていくが、返事はつれない。以下、星野の回想(前出「裸の銀幕」)

「寄らば斬るぞ! 新国劇と剣劇の世界」
〈日活の前途を危ぶんでどうしても話に乗ってこない。結果的には全面的にシャット・アウトだ。遂に私もヤケをおこし、鴨川べりで酒をのんでから町をあてどもなく歩いた。落莫としたトボトボと音のするような心持ちだった。と、そのとき、私の目に「新国劇一座」の看板がはいった。新国劇――これに国定忠治をやらせたら……頭が急に回転しはじめる。私は夢中で小屋にとび込み、辰巳柳太郎氏に日活出演をすすめたが、辰巳氏は私の名前なんか全くご存じない。よし! 私は最後のサイを振った。いぶかる辰巳氏のまえに、座払いとして800万円の金を置いてみたのである。辰巳氏もすっかり安心して承諾してくれた。が、外に出た私の心は氷のように凍っていた。まだ誰にも話していない私の独断――私は秘中の秘に思い当ってニヤリとした。宿から東京柳橋の待合をよび出すと、かねて堀氏(引用者註:日活社長の堀久作)がヒイキにしている芸妓に電話で言いふくめた。「堀さんが来たらネ。皆で新国劇の映画が見たい、辰巳の忠治が見たいってサワいでくれよ。たのむよ……」このお座敷作戦も与って力あったかどうか、堀氏は辰巳出演に大きくうなずいた。私の賭けは報いられ、作品もまた好評だった。〉

自分の功績をかなりドラマチックに脚色しているように思うが、星野が新国劇の二枚看板である辰巳柳太郎と島田正吾と出会うのは、その前に新東宝でプロデュースした盟友・佐分利信の監督作『叛乱』(1954年)が最初ではないか。『叛乱』にはこの二人が出演してきるのである。ならばそのときに面識はあったはずで、日活再開にあたってはその伝手を頼ったというのが本当のところではないのか(『叛乱』については次回詳述する)。いずれにせよ、星野が辰巳柳太郎、島田正吾主演で新国劇総出演の日活再開第1作『国定忠治』(1954年、滝沢英輔監督)[併映:『かくて夢あり』]を製作し、その後も続々と新国劇時代劇を作って、黎明期の日活を支えたことは事実である。

具体的に『国定忠治』に続く星野がプロデュースした日活の新国劇作品とは、『沓掛時次郎』(1954年、佐伯清監督)、『地獄の剣豪 平手造酒』(1954年、滝沢英輔監督)、『「暗闇の丑松」より 初姿丑松格子』(1954年、滝沢英輔監督)、『ソ連国境2号作戦 消えた中隊』(1955年、三村明監督)、『大利根の対決』(1955年、冬島泰三監督)の6本である。そのうち5本が時代劇。

だが日活は次第に製作費のかさむ時代劇よりも、文芸作品の製作に重点をおくようになり、『六人の暗殺者』(1955年、滝沢英輔監督)を最後に新国劇時代劇の製作を中断する。日活が五社と対等と渡り合う力をつけるには、『太陽の季節』(1956年、古川卓巳監督)のヒットと石原裕次郎の発見まで待たなければならない。

【以下続く】