コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 俳優ブローカーと呼ばれた男【その弐】   Text by 木全公彦
岸恵子の起用
星野和平製作、鶴田浩二主演の『弥太郎笠』の撮影1か月前、8月中旬時点でのキャスト発表は次のとおり。

鶴田浩二(りゃんこの弥太郎)
お雪(新人女優をオーデションで公募)
お島(木暮実千代)【注1】
桑山盛助(高田浩吉)
市場の吉(加東大介)【注2】
虎太郎(沢村國太郎)

「日刊スポーツ」1952年8月15日付には、『弥太郎笠』新人女優募集の広告が載っている。〈鶴田浩二 相手役新人女優募集!〉〈ファン待望の夢こゝに実現! あなたの美貌と情熱のチャンス一躍主役に抜擢〉〈☆募集規定☆年令=20才まで/身長=5尺2寸以上/審査方法=履歴書・写真を左記に送付のこと/締切=八月廿日/送付先=中央区銀座二ノ二 新生プロダクション〉〈既経験者も歓迎!〉なお、この時点で新聞広告からは東京プロの名前がなくなり、〈新東宝・新生プロ提携作品〉となっている。

「近代映画」1952年11月号には、8月31日に新橋会館で行われたそのオーディションの様子が採録されている。審査員は、鶴田浩二をはじめ、星野和平、水の江瀧子、兼松廉吉ら。東宝第一期ニューフェイスの鳳弓子と再婚したばかりのマキノ雅弘がこの場にいたのかどうかは記事と写真からではよく分からない。会場には一次審査を通過した女性が数百人。最終的には4人に候補者が絞られた。

ところが、それから日も浅い9月上旬には、お雪役に岸恵子が内定したとニュースが伝わって、大騒動になる。
マキノ雅弘は最初から岸恵子をお雪に配役したかったのだという(「近代映画」1952年12月号所収「“弥太郎笠”は勇み肌で!」)。ところが岸は松竹の専属女優である。そこでお雪役を一般公募で募ってオーディションをしたものの、どうしても岸のイメージが頭から離れず、星野和平を通してぎりぎりまで松竹と交渉を重ねたという。一方で現在では岸の『弥太郎笠』出演に熱心だったのは鶴田浩二の方だったというのが定説である。いずれにせよ、岸も鶴田と同様に、松竹から与えられる役に常日頃から不満を持っていたことは確かである。

1952年、東映が今井正で『ひめゆりの塔』を製作すると発表すると、各社から若手女優がノーギャラでも出演したいと切望し、松竹の若手人気女優ナンバーワンの津島恵子は、松竹と粘り強く交渉の結果、『ひめゆりの塔』への出演を果たし、翌53年には松竹を退社しフリーとなる。岸恵子も『ひめゆりの塔』への出演を切望した若手女優の一人であった。しかし岸は松竹の猛反対で『ひめゆりの塔』には出演がかなわなかった。

マキノ雅弘の自伝「映画渡世」(平凡社、1977年)、「マキノ雅裕女優志 情」(草風社、1979年)、「マキノ雅裕の映画界内緒ばなし」(「週刊文春」1966年4月15日号所収)のよるマキノの回想によれば、岸恵子という松竹の新人女優の存在を知ったのは、1952年、東宝で『浮雲日記』を撮影中のことであるという。岸は松竹『母恋草』(51年、岩間鶴夫監督)で共演した宮城千賀子を慕い、『浮雲日記』の撮影でマキノと宮城が常宿にしていた渋谷の菊亭に尋ねてきて、翌日の撮影を見学していたのである。そこでどうも宮城千賀子と主役の三田隆との呼吸が合わないのを見て、「私ならもっとうまくやれる」と言ったのをマキノが聞きつけて、やらせてみたところ見事にこなし、マキノを感心させたそうである。

すっかり岸恵子が気に入ったマキノは、『弥太郎笠』の直前に松竹でメガホンをとった『武蔵と小次郎』(52年)で準主役に岸恵子を所望するが、プロデューサーの小倉浩一郎に拒絶され、桂木洋子に代えて撮ったといういきさつがあった。岸は宮城を通じてマキノに私淑していたこともあり、今度はどうしてもマキノが監督する『弥太郎笠』に出演したいと、松竹に辞表を提出する。岸恵子は「スターの夢と松竹の恩は別個のものだと思う」とコメントを発表(「撮影所」、「キネマ旬報」1952年10月上旬号所収)。

【注1】衣裳を着てポーズをとるスチルは残されているが、現存の作品には出演しているのを確認できない。
【注2】河津清三郎に変更