コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 俳優ブローカーと呼ばれた男【その弐】   Text by 木全公彦
1952年、日本映画界は相次ぐスターの引き抜きや独立に揺れていた。その最大の震源地となったのは松竹であった。

鶴田浩二の独立
三國連太郎
騒動の火付け役になったのは、有望な新人として松竹が売り出していた三國連太郎が東宝の『戦国無頼』(52年、稲垣浩監督)に無断出演をし、松竹を解雇された事件だった。三國はこのあともこのような横紙破りを繰り返し、札付きのレッテルを張られることになるが、最初の騒ぎであるこのときの、いわゆる三國事件は業界を揺るがす一大スキャンダルへと発展し、各社の引き抜き合戦やスターの独立が活発化するきっかけにもなった。

三國連太郎引き抜きの立役者である東宝の田中友幸プロデューサーは、続いて同じく松竹から角梨枝子の引き抜きを画策するが、事前に察知した松竹側が角梨枝子と再契約をしたために引き抜きは失敗。翌年には、東映が東宝から田代百合子、新東宝が大阪松竹歌劇団から安西郷子を引き抜き、ほかにも東宝が松竹の桂木洋子、大映の長谷川一夫、京マチ子に触手を延ばしているとの噂が広まり、その年の9月に日活が製作再開を発表すると、日活による既存映画会社所属の俳優・監督への引き抜きが激化する。

鶴田浩二
そんな中、佐田啓二、高橋貞二とともに〈松竹青春三羽烏〉の一人として人気絶頂にあった鶴田浩二が、1952年松竹との契約満了を機会に独立し、5月2日、水の江瀧子のマネジャーであった兼松廉吉とともに、自らが主宰する新生プロダクション(以下、新生プロと略す)を立ち上げる。当初は文壇人や映画界の重鎮も顧問として招聘する予定だと報じられたが、それは実現しなかったようだ。

鶴田が独立プロを設立にした理由は、1951年の「平凡」の人気投票ではダントツの1位を得ているように人気があるにもかかわらず、それに見合う良質の作品に出演できないからという不満があったためだとされている。同年5月19日、鶴田は大船撮影所所長の高村潔と最終会談を行い、5月21日、新橋クラブにおいて、高村、兼松、鶴田の三者立会いのもと、次の四項目を確認しあい、松竹は鶴田の独立を承認し、本数契約が結ばれた。①年間四本の松竹作品への出演 ②二本程度の他社作品出演を認める ③出演料は一本につき百万円とする ④残余期間中は巡業自由とする。

鶴田独立の陰には引き抜き王・星野和平が絡んでいると噂された。このことは後述する。鶴田が設立した新生プロでは、鶴田が松竹の「東宝、大映作品に出演せず」という希望を容れて、星野和平が主宰する東京プロとの間に1年以内に2本の映画を製作するという契約を交わした。鶴田はそれに先立って歌と寸劇の舞台で全国巡業を行い、これを大好評のうちに終えると、松竹の『お茶漬の味』(52年、小津安二郎監督)に出演し、やっと一流監督の作品への出演を果たし、口の悪い評論家に「人気は一流、映画は二流」と呼ばれた汚名を払拭する(ただし、松竹と新たに交わした左記契約が有効になるのは『お茶漬の味』以降の作品についてである)。

新生プロは東京プロとの提携で、子母沢寛原作『彌太郎笠』(以下、『弥太郎笠』と記す)、今日出海原作『ハワイの花』(監督未定、高峰秀子共演、フジカラー予定)を鶴田浩二主演で製作し、尾崎士郎原作の東映作品『人生劇場』(佐分利信監督・主演)にも鶴田が出演すると新聞発表をした(「スポーツニッポン」1952年5月28日付)。『ハワイの花』の企画はいっとき成瀬巳喜男の初カラー作品になるという、ほとんどガセに近い報道も出たが、のちに『ハワイの夜』(53年)と改題され、松林宗恵監督でクランクインされ、封切りに間に合わない恐れが出たため、マキノ雅弘が共同監督を務めることになり、鶴田浩二、岸恵子主演で映画化されることになる。

同年6月には東宝が東京プロから『弥太郎笠』の企画を譲り受け、本木荘二郎製作、マキノ雅弘監督、大谷友右衛門主演で映画化するという報道もあったが、どうやらそれは誤報であったようである(「スポーツニッポン」1952年6月12日付)。といっても、この誤報はまんざら根拠のないことではない。順序は逆になるが、『弥太郎笠』の映画化は、最初大映で持ち上がり、長谷川一夫主演で映画化直前まで進んで中止になり、東宝では大谷友右衛門主演を念頭に稲垣浩が脚本を書き上げており、東映でも片岡千恵蔵主演で企画が検討されていたからである。また、誤報で名前が挙がったマキノ雅弘は、東京プロの第一回作品『離婚』(52年)を監督している上に、マキノ自身、前回書いたように東京プロを主宰する星野和平とは古くからの知己でもあった。