コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 林土太郎が語る三隅研次のことほか   Text by 木全公彦
今回は大映京都の録音技師・林土太郎さんにお話しを伺った。三隅研次監督のことだけでなく、大映京都のことや林さん自身のことも語られているので、これだけでも貴重な記録ではないかと思う。ただ録音機材の調子が悪いのに気付かず、内容をじゅうぶん再現できなかったのは残念だったが、エッセンスを抜き出して再録する。

三隅研次
ご近所さん
――林さんは三隅さんのご近所だったそうですね。

三隅は昔、上京区に住んでおって、大徳寺というお寺がおますやろ、一休さんで有名な。あの南側の正面前下がったところに私がおって、三隅は裏門のほうに、大徳寺を挟んで住んでおった。だから仕事が終わって帰るときになると、三隅は酒を飲まんから、「ほなら一緒に帰ろうか」と言って、よく一緒に帰りました。私が疲労で体をこわしたことがあったんですわ。次から次へと作品に追われて、まあその頃は映画界もええ調子やさかい、忙しくてね。丸4日寝ないで仕事したこともあった。それで病気になって、家で寝ていると、三隅が見舞いに来てくれたことがおました。初めて私の家に来てね。私の家は間口が長ごうって、奥行きがあまりない。二階建ての屋根の隙間から祇園の山が見える。ほしたら三隅が「おっさん、調子はどうや」と言うてね。「あんたの家は祇園の山鉾みたいやの」と。「お前は見舞いに来たんか。俺の家をクサしにきたんか」と言って笑ったことがありました。

――それはいつごろですか。

昭和17年ぐらいかな。

――林さんは大映時代に三隅さんとあまり一緒にやっていらっしゃいませんね。
『桃太郎侍』(57)が最初で、『かげろう笠』(59)、『眠狂四郎無頼剣』(66)、『兇状流れドス』(70)、『狐のくれた赤ん坊』(71)。大映倒産後の勝プロになって急に多くなります。『子連れ狼 子を貸し腕貸しつかまつる』(72)、『同・三途の川の乳母車』(72)、『同・死に風に向う乳母車』(72)、『桜の代紋』(73)、そして最後が『子連れ狼 冥府魔道』(73)。

そやね、私は森(一生)さんのが多かった。森さんが新興キネマにいたときに応援に行ったが最初だったかな。勝プロになってから三隅と多くなったのは、勝(新太郎)ちゃんのところと契約したからです。勝ちゃんが自分のところで作った映画はたいてい私が仕上げをやった。三隅も勝ちゃんと契約したやろ。そういうことだと思います。

――三隅さんは事前の打ち合わせはするんですか。

やるんです。やるけど三隅とは打ち合わせのときも友だちみたいなもんやから、冗談言いながらやっていましたけど、表面上はあいつは監督やから、少しは立ててやらんと(笑)。でも別に監督風吹かせて威張るわけじゃないですよ。おとなくして謙虚でした。

――どちらが年上なんですか。

同じ年。私も17歳ぐらいから日活で働いてますよって、映画の仕事の好きでホンの段階からああだこうだとごちゃごちゃ口出すのが好きで、言うんですわ。

――三隅さんはそういう意見を聞かれるんですか。

「おっさん」……私のことを「おっさん」と呼ぶんですが――

――他の人もみんな「おっさん」でしょう(笑)。

そうや。そんで「おっさん、それはええな」とか「こないしたいんやけど、おっさん、どう思う」と聞いたり、そういうことは言います。素直に耳を傾ける。みんなで映画を作っている感じの男やった。それでホンを直すこともあった。撮影中も「これはおかしいやないか」と口を出すと、「そやな」と言って現場で直したこともあった。

――三隅組では美術の内藤昭さんとキャメラマンの牧浦地志さんの意見が反映されていることも多いとか。

仲がよくてようコンビを組んでますからね。内藤さんは参謀みたいなもんやね。牧やんは勉強家で腕もよかった。