コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 森田富士郎が語る三隅研次   Text by 木全公彦
リアルということ
――森田さんが三隅さんと組んだ作品というと、『眠狂四郎炎情剣』(65)、『酔いどれ博士』(66)、『大魔神怒る』(66)、『座頭市喧嘩太鼓』(68)、『桜の代紋』(73)、『子連れ狼 冥府魔道』(73)、全部で6本ですね。おとなしい方だと聞いているんですが、現場ではやはり粘るんですか。

森田役者に対してはねちっこいね。「もうちょっと手を下げたらどうええ?」って京都弁でネチネチやる。私に言わせればちっともおとなしくない。

――小道具や衣装に関しては細かいんですか。

森田溝口さんほどではない。溝口さんの場合は本物を持ってこいでしょ。そういうことは言わない。ただ映画での中での登場人物の役に合ったものであるとか、時代的に間違ってないかとか、そういうことですね。大映京都の美術部と小道具係は、映画会社の中でも随一ですから分からないときは相談すればいいんです。偏屈かもしらんけど、何でも知っている。そのすごさは他の会社に出向いて他流試合するとよく分かる。いかによそがお粗末か。そのために三隅さんも腕を買われて、(松竹に)引っ張られたようなもんでしょう。そういうモノを見る目は確かです。

――(衣裳考証の)上野芳生さんと仲がよかったみたいですね。

森田そうだったかもしれない。(大映社長の)永田雅一という人はいろいろ毀誉褒貶あったけれど、技術を大切にしたことは誉められていいですね。美術も水谷浩、松山崇、あの人たちの時代から格段によくなった。

――大映は重厚でリアルですからね。そこでお聞きしたいんですが、映画におけるリアルっていうのはどこまでがリアリズムで、どこからが映画的ウソになるでしょうか。たとえば三隅さんにしても、時代劇であっても眉剃りやお歯黒をやっていないときと、『大菩薩峠』(60)のように、ちゃんとやっている作品もある。

森田そこなんだ。プログラム・ピクチュアではそういうのは一種の約束事が出来上がっているから、そう厳密にやらんでもいい。しかしあんまりウソではいかんでしょう。私も『女殺し油地獄』(92年、五社英雄監督)では撮影もリアリティを狙って、可能な限りライトを少なくして、当時の行燈での光源を再現するような低照度で撮影しました。鬘にしても昔の時代劇はみんな一様に同じでしょう。ムシリならいいけど、月代になると、誰もがいつも青々としているのはおかしいでしょ。普段陽が当たっているところは剃ると、そこだけ日焼けしていなくちゃいかんし、当たっていないところは青くなくちゃいかん。夕方になればちょっとは毛が伸びてくるし。女の人だってそうです。みんな富士額でしょ。それはおかしい。どこまでリアルをやれるのか。そういうジレンマが私にはある。要するに時代劇に使っている鬘というのは舞台用のものなのね。リアルさを出すたけに半ヅラでもいいと思うんだ。それによって人それぞれのキャラクターというのも出せるし、人物の個性が生きてくる。藤沢周平の小説にも月代についてそんな描写がありますね。なんだっけか。山田洋次さんの『たそがれ清兵衛』(2002)ではそのへんのところうまくやっていましたね。

――その逆に『子連れ狼』みたいにデフォルメの極致みたいな映画もある。

森田あれはもとが劇画だからでしょう。三隅さんはもともとカットが細かい人だけど、『子連れ狼』なんかは劇画調にもっとカットを細かくしている。でも三隅さんの画作りは几帳面ですよ。あの人は絵が描けるから。そういう点では画面に対する認識というのは森一生さんとは正反対。