コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 森田富士郎が語る三隅研次   Text by 木全公彦
森田富士郎
6月11日、森田富士郎さんが京都市内の病院で亡くなられた。享年86。大映京都の伝統を引き継ぐ映像京都を代表する撮影監督(キャメラマン)であった。大映京都のプログラム・ピクチュアの撮影を数多く担当し、『大魔神』(66年、安田公義監督)の撮影でキャメラマンとしての最高の栄誉である三浦賞を受賞。大映倒産後は映像京都の設立に参加。1970年代以降は五社英雄や勅使河原宏の女房役として多くの作品の撮影を担当した。

大映に入社してから
三隅研次
森田さんにはDVDの特典映像の製作の仕事などを通じて、何度も取材をさせていただいた。大阪芸術大学の教授も務めていた人だから、理論肌で、専門用語を交えながら、フィルムの感度やレンズの特性などを話していただいたが、こちらの知識不足でそのすべてを理解していたのかといえば、ちょっとおぼつかなかったというのが正直なところで、それが少し残念でもある。

そんな森田さんに三隅研次監督のことを聞きたいとお願いすると、「私はそんなに三隅さんとはやっていない」と仰ったが、蕎麦でも食べながら雑談ということならばということで取材を快諾してもらった。これはそのときの記録である。


――大映に入社されたのは、昭和22(1947)年ですね。

『素浪人罷通る』
森田そう、撮影助手で入社しました。3ヶ月の試用期間があって、最初に就いたのが『素浪人罷通る』(47)という映画。

――伊藤大輔監督の。

森田主演がバンツマさんですよね。キャメラが川崎新太郎さん。その頃はGHQがチャンバラ映画を禁止していたんで、時代劇は年に数本ですよ。自由に作っていいとなったのは講和条約の前後でしょう。それから私が就いた時代劇といえば『甲賀屋敷』(49)。衣笠(貞之助)、長谷川(一夫)の新演技座製作の作品です。これのキャメラマンが杉山公平。杉山さんはいつも私に「キャメラを覗いてポジションをつけてみろ」と言うんです。それで私がポジションをつけるでしょ。そうすると杉山さんが覗いて、修正する。それで「こういう理由でこのポジションになる」と説明してくれる。「なるほどなあ、画はこうして切るんだな」と分かるんです。勉強になりました。だから杉山さんが私の師匠です。あと私が影響を受けた人というと相坂操一さんと宮川一夫さん。私は黒澤さんの『羅生門』(50)にも就きましたが、あれで宮川さんは初めて露出計を使った。それまではキャメラマンの勘に頼るしかなかったんです。ツブシっていうのがありますね。フィルターを使うんですが、露出計がないとフィルターがどのぐらい光を通すか分からない。それまでのキャメラマンの失敗といったら露出不足です。そんなことをやりながら覚えていくわけです。

――森田さんの同期というと?

森田いないんです。私は戦後入社第1号で、キャメラマンは私ひとりだけ。あとは全部戦前からの人でした。だから今はもう全員物故者ですね。いちばん年が近かったのが三隅さんとよく組んでいた牧浦地志さん。で、牧浦さんが私よりも大体10歳ぐらい上。その上となると、本多省三、今井ひろしといった人たちで、私より一回り上になっちゃう。

――三隅さんも年上になりますね。大映ができる前に日活に入社されたんですから。

森田それで兵隊にとられて、シベリアに抑留されてね。ずいぶん苦労されているんだ、あの人は。

――そういう話はされるんですか。

森田う~ん……雑談の端々にちょっと出るという感じですかね。もともとが無口な人だから。

――(美術監督の)西岡善信さんもシベリアに抑留されていたんでしょう?

森田あの人は学徒出陣で将校待遇だから、三隅さんみたいにひどい目に遭ってない。抑留されたのも三隅さんのほうが寒冷地だったんじゃないかなあ。

――三隅さんはお酒を飲まないですね。コーヒーを飲みながらそういう話をされるんですか。

森田コーヒーはいつもハシゴ。新しい店が開店すると誘われて付き合わされました。三隅さんは年とってから車の運転を覚えたんだけど、それであっちこっちの喫茶店に行ってね。車の運転は私が勧めたんだ。運動神経がなくて不器用でね。あっちこっちぶつけてすぐに車をベコベコにしちゃった。