コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 反共プロパガンダ映画を再見する【活字篇】 第3回   Text by 木全公彦
田口修治

『私はシベリヤの捕虜だった』パンフレット
まとめ
田口修治は「これからの日本は、日本のすぐれた産業の技術を世界に紹介する、大型・産業映画の時代になる」と予見して、1955年にPR映画製作にも乗り出し、『日立造船』を製作。しかし、翌1956年に電通との共同製作による新三菱興行委嘱『新三菱の全貌』を製作準備中、狭心症で51歳の若さで急死した。シュウ・タグチ・プロダクションズは長男の田口寧が引き継いだ。

ざっと田口修治の業績を紹介したが、こうしてみると『私がシベリヤの捕虜だった』がフィルモグラフィの中で突出して異色だったことがわかる。だがアメリカが資金提供をした反共プロパガンダ映画という枠組みにとらわれずに、映画の内容も含めて検証しなおしてみると、シベリア抑留の実態とそこで苦労した抑留者たちの姿を描いておこうという純粋な気持ちから、映画を製作したのではないのか。付け加えておくと、田口家は代々クリスチャンである。ならばキリスト教的な人道的主義の気持ちも働いていたとも推察できる。つまり最初からプロパガンダ映画なんて製作するつもりは毛頭ない田口修治にしてみれば、アメリカがカネを出してくれることを利用して、日本人の同胞が異国で経験した辛い記憶をフィルムに記録したにすぎないのではないか。そんな気がしている。


<了>

『私はシベリヤの捕虜だった』のDVD発売(税抜¥3,000)
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