コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 反共プロパガンダ映画を再見する【活字篇】第2回   Text by 木全公彦
『私はシベリヤの捕虜だった』の意義
もっとも『私はシベリヤの捕虜だった』は、戦時中の国策映画ではないので、いくらアメリカが極秘に資金提供した反共プロパガンダ映画といっても、サンフランシスコ講和条約に調印したばかりの日本としては、ソ連との関係も慮らねばならず、極端な描写ができなかったという事情もあるだろうことは考慮しなければならない。

重要なのは、『人間の條件』(59~61年、小林正樹監督)のように、劇中でシベリア抑留が描かれた日本映画は少ないながらもあるが、戦後長い歴史の中で、日本人のシベリア抑留について、真正面からちゃんとした形で描いた映画は、この『私はシベリヤの捕虜だった』ただ1本だけという事実だ。それは日ロ外交の難しさの反映でもあるのだろうか。そのあたりの事情はまったく分からない。

ただ作品の評価とは別に、戦後の早い時期にこのようなテーマの作品を製作した田口修治の勇気は誉めたたえるに足るものだろう。映画そのものの出来はお世辞抜きでもいいとはいえない。エピソードの数珠つなぎで、構成にかなり難があり、キャラクターの掘り上げは表面的にとどまり、深みがない。にもかかわず、同じ反共プロパガンダ映画であっても、前回紹介した『ジェット機出動 第一〇一航空基地』(57年、小林恒夫監督)のようなあからさまな自衛隊PR映画でもなく、『嵐の青春』(54年、志村敏夫監督)のようなカリカチュアされたグロテスクな反共映画でもなく、少なくともそれらの作品よりは、ずっと公平な映画であるように思う。なぜアメリカが資金提供したほかの反共映画に比べて、『私はシベリヤの捕虜だった』が、公平な立場でシベリア抑留を描いた作品になったのか。その秘密はプロデューサーである田口修治のそれまでのキャリアに深い関わりがあるように思う。次回はその一端を田口修治のキャリアとともに明らかにしたい。

(以下、次号)

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