コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 反共プロパガンダ映画を再見する【活字篇】第2回   Text by 木全公彦
『私はシベリヤの捕虜だった』の撮影は、1951年暮れから、北海道千歳の広島村に建設されたラーゲリのオープンセットから始まった。この作品がアメリカ当局から資金供与された反共プロパガンダ映画であることは表立って明らかにされていないが、この作品がシベリアに抑留された旧日本兵の苦難を描いたものであることは撮影中から知られており、映画製作を反対するプラカードを掲げた一団による抗議も受けた。そんな中、ラーゲリのセットの一部がボヤで燃えるという不審火騒ぎが起きた。

白鳥事件
撮影助手を務めた岡崎宏三は、この地域はもともと共産党員が多いことで有名だったという。ボヤは映画製作に反対する共産党員の放火ではないかというまことしやかな噂が流れ、札幌市警察も実況検分にやってきた。不審火そのものはさほど大きなものでなかったので、撮影は遅滞することなく進められたが、かねてより共産党の非合法活動対策に従事している、札幌市中央警察署の警備課長である白鳥一雄警部は、この件に共産党員に関係していると推察した。事実、ボヤ騒ぎに前後して札幌付近では共産党員による不穏な事件が多発していた。その中には炭鉱から採掘された石炭を輸送する列車を赤信号で止めて、積載された石炭を市民たちに強奪させるという、いわゆる赤ランプ事件も含まれていた(この事件は事前に計画が漏れて未遂に終わった)。

年が変わって1952年の1月21日。札幌市南6条西16丁目路上で、自転車でパトロール中の白鳥一雄警部が射殺されるという事件が起きた。犯人は自転車に乗って、白鳥の乗る自転車に並走して白鳥警部にブローニング32口径を2発発砲したのだった。犯人は逃走。白鳥が左翼運動弾圧を目的とする特高警察に携わり、現在は警備課長というポストに就いていたことから、捜査当局は共産党関係者を中心に捜査をする。当時の日本共産党は「軍事闘争」方針を採択しており、白鳥射殺の報に、一部の党員は「天誅」と書かれたビラをまいたりしていた。事件の4ヶ月後、党員の内通で事件に関与している札幌地区委員らが逮捕されるが、実行犯は当時まだ日本と国交のない中国に逃亡する。逮捕された共犯者は1963年に最高裁が上告を棄却して、刑が決定した。中国に逃亡した実行犯は病死している。

事件の経緯やその後の経過についての詳細は、ウィキペディアの「白鳥事件」、および「オワリナキアクム 事件録」の「白鳥事件」を参考にされたい。これらの記事にも明らかのように、共産党や自由法曹団は、白鳥事件は冤罪ではないかと主張しており、作家の松本清張はノンフィクション「日本の黒い霧」の中で、事件が起きたことで結果的に道内の共産党がほとんど壊滅状態になったことを挙げて、アメリカ諜報部の謀略ではないかというような推理をしている。



肝心の『私はシベリヤの捕虜だった』の撮影は、岡崎宏三によると、《今日は中止になったんだから出演料を半分にしてくれ》と[雇われた出演者たちに]交渉すると、共産党が来てどうの……という話を聞きました。それから帰還兵が船で着くシーンで、共産党のグループが邪魔しに来たというのを聞いた。》(「占領する眼・占領する声」、土屋由香・吉見俊哉編、東京大学出版局、2012年)という証言がある。田口修治の遺児で、田口の急死を受けてシュウ・タグチ・プロダクションズを引き継いだ田口寧によると、ナホトカの場面を撮影した築地の場面の撮影には、プラカードを持ったデモ隊が押し寄せたという。ともあれ『私はシベリヤの捕虜だった』の撮影は、おそらく近辺で頻発する、そのような周囲の不穏な空気を肌で感じつつも、直接大きな影響を及ぼすことなく、不審火騒ぎもうやむやになり、無事撮影を終えた。