コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 反共プロパガンダ映画を再見する【活字篇】 第1回   Text by 木全公彦
映倫の勧告と削除要請
『私がシベリヤの捕虜だった』の撮影が始まったのは1951年の暮れである。撮影助手を務めた岡崎宏三の回想によれば、撮影に使用するミッチェルなど、撮影道具一式とフィルムは資金を提供したアメリカが税関を通さず、直接横田基地に送ってきたという。「ボディは四本ターレットでバルターのレンズ、三脚、ヘッド(雲台)に至るまですべてまっさらでした。メインキャメラマンの藤井さんのオーダーで、インフラレッド(赤外線)フィルムも輸入できました。/このフィルムはキャメラマンのジョー・マクドナルドが『荒野の決闘』で疑似夜景に使用したものです」(岡崎宏三著・石渡均編「ひまわりとキャメラ」、三一書房、1999年)

当時は脚本ができあがると、映倫に提出して許諾を得なければならないが、その過程を省略し、秘密裏の形で撮影準備が進行した。事態を察した映倫は、規則を無視した態度に「国際感情を刺激するおそれがあるので製作を一時延期するか、どうしても製作するなら外地に取材し、他の作品と同様に慣例通りの手続きをしてほしい」と勧告をした。慣例通りの手続きとは、関係国在日機関(この場合はソ連代表部)の了解をとるか、占領軍(GHQ)の正式許可をとることである。だが、シュウ・タグチ・プロダクションズ側は強気の態度を崩さなかった。それはバックにアメリカの存在があるからなのだが、映倫が業界内の自主規制組織であるにしても、日露の外交問題を考えると、外務省としては憂慮すべき事柄である。日本は敗戦後、事実上アメリカに統治されたが、ソ連も戦勝国であり、そうなると国際信義にもかかわってくる。外務省が憂慮を映倫に伝えたか、映倫が外務省の困惑を敏感に察知したかは分からないが、ともあれ反共映画であるにしても、あからさまな反ソ映画はまずいというわけなのだ。このあたりのゴタゴタは「映画年鑑1953年版」にも載っている。

渡辺銕蔵
映倫には渡辺銕蔵という東大の法学博士がいたはずで、この人は東宝争議のときの東宝社長で、反共の闘士として、強硬に組合員を解雇・排除し、占領軍に協力を要請して、例の「来ないのは軍艦だけ」という大弾圧をしたことで有名な人である。東宝を辞した1952年には「軍備促進連盟」という反共・再軍備・憲法改正の超党派組織を結成。そんな人が上層部にいた映倫が反ソはまずいというんだから、事前に脚本提出をしなかった懲罰的な勧告なのか、それともよほど内容がまずかったのか、外務省かなにかそのスジからの圧力が大きかったからだとしか思えない。あるいは今でいうところの“炎上ステマ”というやつで、ネガティヴ・キャンペーンを宣伝に利用したとか。まさかね、いくらなんでもそんなことはないか。

しかし現在目にすることのできるDVDは、明らかに冒頭不自然な、カットされたような始まり方をしており、劇中にも何か所かそのような削除の痕跡らしきものがあるし、ラストも同じく余韻が断ち切れたようになっている。当時『私はシベリヤの捕虜だった』の評論を掲載した「ソヴェト映画」1952年4月号には、一部セリフのカットやスターリンの肖像画が映るところを引っ込めてほしいという要請があったことを明らかにしているが、プロローグとエピローグの削除は、映画を入れ子構造にする枠がなくなることを意味し、戦後である現代からの視点がなくなってしまうが、この有無がそれほど大きいとは思えない。ということで謎は未解決のままである。

ともあれ『私はシベリヤの捕虜だった』は、映倫の勧告も聞かず、「ロケに雪が必要だから調整の時間はない」という理由で、1951年暮れから、北海道千歳の広島村(現在の北海道北広島市)にラーゲリのオープンセットを組んで撮影を開始する。室内は東宝のスタジオが利用され、ナホトカの場面は東京の築地港に船を浮かべて撮られた。美術監督は中古智。精緻なセットの極みと言われる成瀬巳喜男の名コンビぶりや『ゴジラ』(54)第1作の美術監督として有名なのは言うまでもない。

そして映画は無事クラインクインしたが、撮影中に多発する事件に撮影隊は悩まされることになる……

『私はシベリヤの捕虜だった』のDVD発売(税抜¥3,000)
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