コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 反共プロパガンダ映画を再見する【活字篇】 第1回   Text by 木全公彦
田口修治
『私はシベリヤの捕虜だった』概略
第二次世界大戦終結後のシベリアにおける日本兵の抑留の実態を描いた『私はシベリヤの捕虜だった』の場合、これら2本の映画よりも、この映画が製作された1951年(公開は1952年)当時から製作費や機材の協力などの面で米政府が関与しているらしいと公然と噂されていた。製作会社は、シュウ・タグチ・プロダクションズ。戦前はニュース映画社のキャメラマンなどで活躍し、戦後は多くのCIE映画(後述)を製作したシュウ・タグチこと田口修治が興したプロダクションである。シュウ・タグチ・プロダクションズは、ジョセフ・フォン・スタンバーグが日本の大和プロと合作した『アナタハン』(53)でも重要な役割を担うが、『私がシベリヤの捕虜だった』はシュウ・タグチ・プロダクションズが製作した初めての劇映画であり、1956年に51歳で急死した田口修治が唯一製作した劇映画でもあった。

監督は阿部豊と志村敏夫。二人とも渡辺邦男や古澤憲吾ほど表立ったタカ派ではなかったが、争議に揺れる東宝を嫌って新設の新東宝に移籍した人たちであり、アメリカ帰りの阿部は国策戦争映画の巨匠だった東宝時代と同様に、新東宝でも逆コースのタカ派戦争映画の巨匠として君臨した人だし、志村もそのような新東宝戦争映画大作を手掛けている。なによりもこの2年後には前出の『嵐の青春』を監督するのだから、右寄りの人であったのは想像できる。

『アルプス物語 野性』
脚本の沢村勉は、熊谷久虎と組んで、戦前『上海陸戦隊』(39年)、『指導物語』(41)、ほかに『海軍』(43年、田坂具隆)といった国策映画の脚本を書いた人で、1950年代には熊谷久虎、佐分利信と組んで、独立プロダクション芸研プロを設立し、監督・佐分利信の売り出しに大いに貢献した人。いうまでもなく熊谷久虎は、原節子の義兄で、国粋思想に懲りかたまった戦中の極端な思想のために、戦後東宝に復帰がなかなかできなかったのを助けたのは、彼の思想的影響下にある大スタア・原節子のおかげともいわれている。要するに東宝としては原節子の機嫌取りのために、才能はあるが問題の多い誇大妄想の義兄を雇ったのでないのか。その熊谷、原、沢村のトリオが芸研プロで製作した映画に『アルプス物語 野性』(50)があるが、どうやらフィルムは現存しないらしい。ともあれ、沢村も左よりは右寄りと考えていいだろう。共同脚本は田部敏也。これ一本しか書いてないところから、誰かのペンネームと思われる。撮影は藤井静。撮影助手はこのとき唯一シュウ・タグチ・プロダクションズの契約者であった岡崎宏三が担当した。

『人生劇場 飛車角』
もともとこの企画は、実際にシベリア抑留者であった藤井静の体験談から始まったという。となると、共同脚本者の田部敏也は藤井である可能性もある。藤井は戦前新興キネマで主に牛原虚彦とコンビを組んだキャメラマンで、戦後は芸研プロの提携先である大泉映画で仕事をし、その流れで佐分利信の監督作を担当。佐分利が東映で『人生劇場』(52・53年)を監督したのを機会に、以後は東映東京撮影所で主に小林恒夫や小石栄一と組んだ。東映時代の代表作といえば、『大地の侍』(56年、佐伯清)、『どたんば』(57年、内田吐夢)、『人生劇場 飛車角』(63年、沢島忠)、『人生劇場 続飛車角』(63年、沢島忠)だろうか。ほかそのフィルモグラフィには、『終戦秘話 黎明八月十五日』(52年、関川秀雄)や『夕日と拳銃』(56年、佐伯清)、『爆音と大地』(57年、関川秀雄)など、右も左もあって、そこはいかにも東映的なのだが、たぶん本人も右とか左とかの人ではないような感じだ。

『私はシベリヤの捕虜だった』パンフレット
『私はシベリヤの捕虜だった』シナリオ
あらすじを紹介する。
元キャメラマンの藤村(北沢彪)、元学生の吉田(重光彰)、元楽士の林(有木山太)、元商人の松本(鮎川浩)、元炭坑夫の金子(高原駿雄)の仲の良い戦友5人は、敗戦と共に捕虜となり、シベリアの流刑囚のいた建物に収容され、原始林伐採の強制労働へかり立てられる。寒気と空腹とを堪えながら苦しい作業に、金子は死に、林は脱走し、戦友は3人になった。彼らは新しい収容所へ移されたが、そこには将校に代わって民主委員という独裁的暴力者があって、委員会の威を借りて曹長の竹沢(田中春男)が威張っていた。松本は禁制区域へ知らずに立ち入り銃殺された。ある日やってきた慰問団の中に林の姿があったが、彼が脱走者であることが知られ、何処かへ連れ去られた。残った吉田と藤村はようやく帰国(ダモイ)の夢がかなって、帰還船の出港するナホトカに運ばれた。そこにも民主グループの眼が光っていて、吉田は反動分子として残留させられることに。仲間の中で唯一藤村だけが故郷への帰国がかなったのだった。

「北海道新聞」2013年8月15日付
実は今回の上映会で使ったDVD素材は、2012年に米国立公文書館で、オーファン・フィルムを発掘・保存管理する「資料映像バンク」のスタッフがDVDの形で発見したもので、なぜか冒頭のクレジット・タイトルがタイ語になっているバージョンだった。偶然にもヤフオクで撮影シナリオを入手したので比較してみると、シナリオにはプロローグとエピローグがあり、それぞれ戦後、帰国した藤井静をモデルとしたキャメラマンを始めとする撮影隊が、本作を北海道で撮影している様子を描いていて、それに挟まれて、ちょうど本篇で描かれたシベリアの収容所(ラーゲリ)での出来事が入れ子になるような構成になっている。だが、これはいつの段階でカットされたのか。今回見つかったDVDのランニング・タイムは87分。公開当時の資料をあたると、86分乃至87分とあり、今回の上映版と変わらないのだ。なぜだろうか。