コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 木村元保さんのこと   Text by 木全公彦
旧聞に属する話題だが、昨年、東映系で封切られた『蠢動―しゅんどう―』は、時代劇ファンの三上康雄監督が「見たい時代劇がなくなり、自分で作るしかないと思った」と自主製作で作られた作品だった。

鉄工所のオヤジ
三上康雄は1958年大阪生まれ。高校時代から自主映画を作っていたが、その後は家業の建材メーカーに専念し、しばらく映画からは遠ざかっていた。会社が創業百年を迎えたのを機に株式を売却して、事務所を立ちあげ、『蠢動―しゅんどう―』を製作した。1982年に16ミリで撮った40分の『蠢動』を基に脚本を書き、スタッフ・キャスト募集、ロケハン、衣裳や小道具の発注をすべて一人で行ったのだという。

その話を聞いて思い出したのが、映画好きの町の鉄工所のオヤジだったのに、とても自主映画とは思えないスケールの大作映画を製作・監督し、とうとう映画好きが昂じて、自己資金で増村保造に映画を撮らせ、小栗康平を監督デビューさせ、自分自身も商業映画を監督し、東映セントラルで配給を実現させた木村元保さんのことだった。面識はないが、敬意を込めて敢えて「さん」付けで呼ばせてもらうが、木村さんは60年代後半から80年代初めにかけて東京で自主映画を撮っていた者や、その頃に「小型映画」を愛読していた者なら、知らぬ人はいない存在だった。

アマチュアといっても、木村さんはまったくの素人映画マニアだったわけではない。大映に入社して撮影助手として3年ほど働いた経験があった。確か60年代終わりには地元の自主映画製作仲間と一緒に「小型映画」に載っていたはずだと思い、バックナンバーを繰っていたら見つかった。