コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 三國連太郎の企画   Text by 木全公彦
俳優の佐藤浩市の名前は、父親の三國連太郎が敬愛する監督の稲垣浩と市川崑にあやかって、一字を拝借し命名されたことは、よく知られたエピソードだが、では何人の人が即座に三國が出演した稲垣浩作品や市川崑作品を挙げることができるだろうか。

■ 三國連太郎と2人の監督
稲垣作品では松竹の『稲妻草紙』(1951年)が最初である。稲垣は松竹とはこれ1本きりで、このあと争議の混乱が収束しつつある東宝に戻り、専属契約をすると、復帰第1作『戦国無頼』(1952年)を監督する。スカウトされて松竹に入社した三國は、木下惠介の『善魔』(1951年)で、役名の三國連太郎をそのまま芸名にして、いきなり主役として銀幕デビューを飾り、二枚目俳優として松竹が売り出そうと期待をかけた。ところが入社翌年には敬愛する稲垣浩が東宝で『戦国無頼』を監督すると聞き及び、松竹に無断で『戦国無頼』に出演し、松竹を解雇され東宝と契約する。この一件から三國が義理を欠くアプレ・スタアの典型とマスコミに叩かれ、世間を騒がせたことはちょっとした映画ファンなら誰でも知るところである。

東宝に移籍した三國は、続いて稲垣の『上海の女』(1952年)に出演。恐らく後年の三國の憑依したような怪演ぶりを知っていれば絶対起用しなかったであろう、自然体のお茶漬けサラサラ系が好きな成瀬巳喜男の作品にも『夫婦』(1953年)と『妻』(1953年)の2本に出演。『青色革命』(1953年)でもう一人の恩師である市川崑作品に初出演する。続いて市川の『愛人』(1953年)に出演後、稲垣浩監督、三船敏郎主演の『宮本武蔵』(1954年)に又八の役で出演するが、今後は1954年に製作を再開した日活の『泥だらけの青春』(1954年)に出演。シリーズ第2作の『続宮本武蔵 一乗寺の決闘』(1955年)の又八役は堺左千夫が引き継ぐことになる。

『泥だらけの青春』はベテラン俳優菅井一郎の監督第1回作品で、ニューフェイスからスタアになった男がトップに上りつめ、自信過剰と傲慢さから撮影所の人から疎んじられ落ち目になっていくという物語で、これを松竹から東宝、東宝から日活に走り、五社協定違反俳優第1号となった三國が演じているのだから、リアルタイムでこの映画を見た人は、主人公と三國をダブらせて見ながら、このアプレ・スタアの行く末を想像したに違いない。

だが、予想に反してその後の三國は、順調にキャリアを積み重ねていく。その中には、三國と同じく東宝から日活に転じた市川崑の『ビルマの竪琴』(1956年)がある。だが長男の名前に一字をもらったわりに、稲垣浩作品にしろ市川崑作品にしろ、『ビルマの竪琴』を除き、あまりピンとこない人が多いのではないのだろうか。むしろ失敗作ではあるけれども三國の日活時代に『自分の穴の中で』(1955年)で初顔合わせした内田吐夢の代表作である『飢餓海峡』(1965年)がすぐに三國の代表作として思い浮かぶのではないか。