コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 「母に捧げるバラード」のこと   Text by 木全公彦
7年ぶりの監督復帰作
『殺しの烙印』以来、鈴木清順の実に7年ぶりの新作である。東映としては、任侠映画やスケバンものに代わる路線として、都会で暮らす青年の青春像を中心にして、田舎で暮らす母の息子への思いや青年の母への思いを主軸に描く歌謡青春映画のつもりで、この映画化を企画した。東映の片山清企画製作部長は言う。「新しい路線として、青春モノを企画してみたんです。で、監督は、若者に人気のある鈴木さんだと、思いあたったんです。どうせ新しい路線でいくんなら、実力があって、しかも東映カラーのない人に監督してもらいたかったんです。しかし、あれだけ実力のある人が、このまま埋もれてしまうのは、映画界にとって大きな損失ですよ」(「週刊大衆」1974年6月20日号)。東映の中堅どころの生え抜き監督を起用するのではなく、あえて外部の、それも若い人に熱狂的に支持されている清順を監督に抜擢することで、少しでも若い観客を取り込もうという東映側の算段があったと思われる。

それに対して清順は「普通の人は四年周期で運が変わるそうだけど、ボクの場合はそれが七年なんだ。ホされてから七年、今年あたり撮れるころだと思ってたね」(前出「週刊大衆」)とコメントした。補足しておくと、清順が松竹に入社したのは1948年。それから7年後の1954年に日活に移籍。次に二周期経って12年後の1967年に日活を馘首。人生の転機が7年周期ということを指す。しかし実際に計算してみると、計算がビミョーに合わないが1年ぐらいの誤差は清順の中では許容範囲なんだろう。

脚本家として清順に指名されたのは、鈴木清順問題共闘会議の議長を務めた佐々木守。「五社を追放された鈴木監督が、五社でカムバックするところに意義があるんですよ。いいことですね。独立プロやATGじゃ、意味ないよね。共闘会議の闘いは、五社に対するもので、またべつの意義があることにはあったんですけど」(前出「週刊大衆」)。内容は東映側の意図を汲んで「遠い故郷の母を思う若者の話」とし、清順はこれを「青春義理人情喜劇」と位置づけた。クランクイン予定は6月中旬。マスコミ発表があったのは5月だから、さほど時間はない。東映サイドはこの映画の成否如何で次も東映で監督をお願いしたいとコメントした。ただし前出の片山部長は「むずかしいのは困ります。鈴木さんの著書やシナリオで、何が書いてあるのかサッパリわからないのがありますからね。今度のは、すべて企画、シナリオを(東映側で)お膳立てしたんです」と釘を刺し、清順も「東映路線は崩すわけにはいかないから、ボクを生かせる部分は20%だな。あまり期待しないでください」とはぐらかしているのか、けむに巻いているのかわからない、いつもの清順節で応答した。主演の武田鉄矢は「母に捧げるバラード」がヒット街道驀進中だから、多忙を極め、スケジュールに余裕はない。話題作だが、所詮はプログラム・ピクチュアの一本でしかないから即製が求められる。ともかく脚本作りが急がれた。

しかしいざ脚本作りに取りかかると、清順は東映側の用意した設定が気に入らない。そのうえ、佐々木守は、自身が参加する大島渚率いる創造社が解散したとはいえ、何本もののテレビの帯番組を抱え、多くのマンガ原作も手がけていた超売れっ子だったから、じっくりと新作映画の脚本を書く時間をとることができない。そこでもうひとり助っ人が加わった。清順や佐々木守とも親交がある内藤誠である。内藤によると、清順直々のご指名だったということだが、東映東京撮影所の専属監督であった内藤が入れば、東映との連絡係、しいては調整役も任せられるだろうという判断もあったようだ。だが、佐々木守にせよ内藤誠にせよ、清順ファンでもあるし、7年ぶりの清順のカムバックをいいように飾らせたいという気持ちが強く、どうしても東映の意向よりも清順の肩を持つことになる。そんなわけで、脚本作業にかかる前に東映が提示した企画意図やプロットはどこかにいってしまい、清順のアイディアに基づくオリジナルになってしまう。

“失業中”の亭主をバー務めで支えていた静夫人は、亭主の監督復帰に安堵の表情を浮かべてこうコメントした。「苦労したカイがあって、映画が撮れることになったんですが、七年間のブランクが心配で心配で……。好き嫌いの多い人ですから、お弁当を持たせようかどうしようか、なんて思っているんです」(前出「週刊大衆」)。偏屈でわがままな夫を持った妻の健気な言葉に泣ける。しかしそんな気遣いをよそに早くも波乱の空気が漂いはじめていた。