コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 三國連太郎『台風』顛末記 【その3】   Text by 木全公彦
『台風』完成と試写
『飢餓海峡』の北海道ロケは1964年10月19日、犬飼多吉が弓坂刑事(伴淳三郎)に連行される連絡船の上から投身自殺する場面でアップした。この場面をめぐって、本当に船から海へ飛び降りろと命じる吐夢に三國は「殺す気か!」と逆らい、一時二人の仲は険悪な雰囲気になった。『飢餓海峡』はさらに10月下旬から東京のオープンセットに移って撮影が続けられた。そして先述した11月上旬の三國の病気による一時リタイア。『怪談』への出演、怪我、『台風』の撮影の追い込みへと続く。

『台風』の話に戻る。
 1964年12月に完成した『台風』は、1965年1月に映画評論家を始めとするマスコミ試写が行われた。まだどのような形で東映側が配給・公開するのか決まっていないため、ごく一部の限られた試写だったようである。『台風』を試写で見た映画評論家の中に小森和子がいた。小森は当時「日刊スポーツ」の新作映画紹介欄を担当していた。

〈三國連太郎の第1回監督作で、山に囲まれた小さな部落が舞台。貧しい人たちにもそれぞれに悲喜があるが、一夜の台風は部落を恐怖と貧困のどん底に落とす。村人は山の立ち木を切り生活の糧にするしかない。そこで製材所のボスと村民が対立。村民は本家にその交渉を一任するが、本家とボスの結託で、村民は本家組と組しない者に二分され、とどのつまり弱い者は抹殺され、悪ボスがはびこる。天災をもとに貧しいがゆえに無知な人々が、いかに悲惨な生活に追い込まれるか。そこには法もなく欲望だけが渦巻く。社会悪をつこうとした三國の意図は偉とするが、かんじんな法の盲点など話(脚本・春田耕三)がわからぬのが難。出演者過剰も混乱をまねき、“船頭多くして……”の結果になってしまったのは惜しまれる。演出にはひかる箇所も見られるが、製作意欲と実際のむずかしさを痛感させられた。(1時間45分)〉(「日刊スポーツ」1965年1月17日付)

この批評からは問題になった三木弘子の自慰場面が結局カットされたのかどうか不明だが、ほかの記事を探してもそれらしい記事を見つけることはできなかった。ただそれ以上の大きな騒ぎにはならなかったようである。

三國は東映側に『台風』を見せて、配給・公開の方法について交渉を重ねる一方で、続いて東映『にっぽん泥棒物語』(65年、山本薩夫監督)の撮影に入った。野村芳太郎が監督する予定の松竹映画『白い闇』、山本薩夫が監督する大映作品『スパイ』、今村昌平が自らの芝居『パラジ』を映画化する日活作品にも出演がオファーされていた。そのほかにも松本清張原作の連続テレビドラマに主演することが決まっていた。問題ばかり起こしているのに、相変わらずの売れっ子ぶりである。これらの映画の中で、三國主演で映画化が実現するのは、『パラジ』を映画化した『神々の深き欲望』(68年、今村昌平監督)だけだったが、三國はこれでベルイマンとともに演出のお手本とした今村昌平の作品に初出演を果たすことになる。だが『にっぽん泥棒物語』以外は、本数契約中である東映作品でないことは偶然なのか。

一方、『台風』を社内試写した東映側は、この映画の配給を請け負うことに難色を示し始めていた……。

(続く)