コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 三國連太郎『台風』顛末記 【その3】   Text by 木全公彦
愛欲の後始末
『飢餓海峡』の北海道ロケは、前年1964年の9月9日から始まっていた。主役の三國は、『怪談』と自作『台風』の撮影をかかえていたが、三國はその間を縫うようにして『飢餓海峡』の北海道ロケに向かった。

『台風』の撮影中から三國とはすでに半同棲状態にあった太地喜和子は、『台風』での自分の出番が終わり、三國が『飢餓海峡』の撮影のために北海道に赴くと、三國を追って、函館にやってきた。太地は三國が借りたアパートに押しかけ、そこで何をするのでもなくただただ激しい嫉妬に身悶えしながら、ガランとした部屋で撮影を終えて帰宅する三國をじっと待った。彼女が嫉妬した相手は三國の当時の妻ではなく、『飢餓海峡』で三國が演じた犬飼多吉に思いを寄せる杉戸八重という役に対してだった。当時、太地喜和子20歳。三國は次第に太地の貪欲な愛情を息苦しく重荷に感じ始め、太地と別れることを決心し、彼女を青函連絡船で帰す。そのときの様子を太地は次のように後年回想する。

〈あれは彼が『飢餓海峡』のロケで北海道に行ったときだった。あのときひとりぼっちになるのがとても寂しくて、彼に頼んで北海道へ連れて行ってもらったの。それがわたしたちの最後の旅だったのね。東京からの電話で、わたしが先に帰京しなければならなくなると、飛行機ぎらいの彼は、わたしに汽車で帰れ、と強くいったの。それでしかたなく青函連絡船に乗ったら、ボーイが『お客さまにお届けものです』って、紙袋を届けてきたの。変だな、と思いながら開けてみると、ロケ中に彼が毎日着ていたVネックのシャツが「疲れた」というメッセージとともに入っていたの。彼の匂いがいっぱいしみついていたわ。そんな形で、彼はわたしにサヨナラをいったのね。あのときほど泣いたことはないわ。船室で、彼のシャツに顔を埋め、彼の匂いを胸いっぱい吸い込みながらおもいっきり泣いたわ。〉(「週刊ヤングレディ」1976年11月9日号)

その後、志村妙子は芸名を本名の太地喜和子に戻し、舞台での代表作の1本といえる『飢餓海峡』(木村光一演出)で、かつて彼女が嫉妬した杉戸八重を自ら演じることになる。1972年のことである。ちなみに前出の「週刊ヤングレディ」のほか多くの雑誌で、太地は後年になって自分の男性遍歴をあっけらかんと実名を挙げて話しているが、実名を出された芸能人の中で、それを認めたばかりか太地と対談までして当時を回想したのは三國連太郎ただひとりであった。

*太地喜和子の人生については、「欲望という名の女優」(長田渚左、角川書店、1993年)、「太地喜和子伝説」(大下英治、河出書房新社、2000年)を参照。