コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 三國連太郎『台風』顛末記 【その2】   Text by 木全公彦
台風の前兆
 『台風』に抜擢された二人の新人女優について補足しておく。

岩本多代(1940年3月5日~)、和歌山県生まれ。59年、俳優座養成所入所。同所を卒業した62年に劇団新人会に入り、同劇団を代表する若手美人女優になる。映画には吉永小百合主演の日活『あすの花嫁』(62年、野村孝監督)でデビュー。松竹『無宿人別帳』(63年、井上和男監督)で津川雅彦の恋人役で出演。おそらくこのとき同作品に出演していた三國に見染められたものと思われる。そのほかの代表作は『夜の片鱗』(64年、中村登監督)、『紀ノ川』(66年、中村登監督)、『千恵子抄』(67年、中村登監督)、『はだしのゲン・涙の爆発』(77年、山田典吾監督)、『ガラスのうさぎ』(79年、橘佑典監督)など。テレビドラマ多数。

志村妙子(1943年12月2日~1992年10月13日)、東京都生まれ。59年に高校在学中の身分で東映第6期ニューフェイスに合格し、60年東映と専属契約を結ぶ。TV『新・七色仮面』(60年、NET)でデビュー。続いてTV『ナショナルキッド』(60年、NET)のチャコ役でレギュラー出演。映画は『二人だけの太陽』(61年、村山新治監督)に初出演したのち、『悪魔の手毬唄』(61年、渡辺邦男監督)、『胡蝶かげろう剣』(62年、工藤栄一監督)などに端役出演。63年東映と解約。64年俳優座養成所に第16期生として入所。そこで『台風』に抜擢される。三國連太郎とは彼女が東映にいたときからの知り合いだった。知り合ってすぐに二人は恋愛関係に発展する。そして、『台風』の撮影で、その火はさらに燃え上がることになる。当時、三國は妻帯者で、その妻との間には、のちに俳優になる佐藤浩市という息子もいた。当然、その関係は不倫である。現在、そのエピソードは志村妙子の芸名改め太地喜和子という女優を語るときのエピソードとして必ず引き合いに出されるので、改めて書くまでもないだろう。その後、彼女は俳優座養成所を卒業したあと、文学座に入団し、舞台・映画に活躍し、また一方で恋多き女として少なからぬ男性と浮名を流し、これからという演技の円熟期に、若くして突然の事故で死去したキャリアと人生は、多くの人の知るとおりである。

木曽福島での『台風』のロケが20日ほど済んだ頃、三國は撮影を中断し、東京で撮影中だった『狼と豚と人間』に8月7日から出演する。連日の監督稼業で声は掠れ気味で、疲れも溜まっていたが、憔悴した姿は役にはピッタリであった。三國の出演場面は、3日間集中的に撮影が行われた。

 『狼と豚と人間』の出番を終えて、三國は8月11日前後には『台風』の撮影現場に戻ってきて、演出に専念した。しかし8月20日から3日間は、今度は7月28日からクランクインしていた『飢餓海峡』出演のために舞鶴ロケに出かける。三國扮する犬飼多吉が左幸子扮する杉戸八重を殺す重要な場面もそのときに撮影された。それが終わると再び『台風』の撮影現場に戻る。そこで彼の演出の特徴ともなった“思いつきと閃きによるアドリブ演出”で脚本にはなかった場面を急遽付け加え、出演者のひとりである三木弘子(俳優座養成所)に自慰をさせる。これがマスコミにセンセーションを巻き起こすことになる……。

(続く)