コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 三國連太郎『台風』顛末記 【その2】   Text by 木全公彦
『台風』撮影ルポから
当時の新聞記事に戻ろう。

〈この映画は三國連太郎が日本の映画界にぜひ自分の作品を残したいと、この3月、日本プロを設立してはじめての作品で、テーマは台風に襲われ外部から隔離された一区民の行動を通じて、日本人のゆがんだ精神の一面を戯画化しようという“人間喜劇”をねらったもの。舞台は伊勢湾台風に襲われた名古屋周辺の山村という設定で(引用者註:長野県西筑摩郡)開墾村髭沢区を選んだ。この日は板屋根に石の乗っているこの地方特有の同区の(略)キュウリ畑にカメラをすえ、分家派から本家派に寝返った夫光秀(今橋恒)が手みやげに家の鶏を持ち出そうとするところへ妻の玉枝(志村幸江)がびっくりして駆けつけるところなど3カットを、多くの村民が見物する中で撮影したが、三國監督はさすがに演技派できたえただけに初監督とも思えないほどメガホンも堂に入ったもので、俳優の手をとって演技指導したり、テストを何回もくり返して注文をつけるなど細かい神経を使った。作品のねらいについては「現在の退廃的、否定的哲学への抵抗を盛りあげたいと思っている初監督だが撮影スタッフと演技陣の協力でりっぱなものに仕上げたい」と意欲を語った。〉(「中日スポーツ」1964年7月23日付)

〈7月下旬から長野県木曽福島で長期ロケーション中の『台風』(三國連太郎監督)は快調にクランクしているが、主演の望月優子、北林谷栄らの子どもの役で出演する国際児童劇団(名古屋市・巣山柳作氏)の6人の豆タレントがこのほど決まり、15日、中日スポーツ総局を訪れた。6人は22日から現地ロケに参加、それぞれ望月、北林らの家族の一員となって出演する〉(「中日スポーツ」1964年8月17日付)

〈ロケ宿は木曽御岳(3,063メートル)のすぐふもと。“夏でも寒い”と木曽節に歌われており、ロケ地一帯の高原にはススキが白い穂をたれ、赤トンボが舞って早くも初秋ムード。しかしいちばん近い町(木曽福島)に出るにもバスで1時間という山の中の生活だけに娯楽もなく、ロケ隊は陸の孤島でただ“働いて、寝るだけ”の生活を送っている。「戦場と同じですよ。不便で、ただやたらと忙しくて」と三國監督。しかし朝6時に起床して7時に現場に出発、夜6時ごろまで撮影をつづけるが、興が乗れば夜11時までとりまくることもあるという。そうして夜は午前3時ごろまで台本を首っぴきで、翌日の構想を練る。スタッフもエキストラの手配から撮影のあと片づけまで深夜まで働き続ける。そして10日に一度ぐらいはラッシュ(部分試写)を見に夜の10時に部落を出発して、町まで峠を一つ越えて見に行くという、山の中のロケ隊ならではの苦労もしている。この三國に当面の問題は? と聞くと「監督としては才能がないこと、プロデューサーとしては金がないこと」と笑った。(略)出演者のひとり、山本学は「ともかく三國さんの粘りには頭が下がります。あきらめることを知らないから……」三國の演出は、ていねいに1カット、1カット積み重ねていく作業の連続だ。それも演技者としての経験を生かして1カットずつ出演者にカンでふくめるように状況を説明したり、相談しながら撮影をつづける。ときには前夜、構想を練るとき、ふっといいアイデアが浮かんできて、シナリオを全部書きかえるときもあるという。そういう場合は先に寝てしまった俳優さんをたたき起こしてリハーサルにはいるというから、いかにも芸の虫、三國らしいやり方だ。「どの監督のスタイルに似ているかといえば、やはり僕独特のものですかねえ。しかし、監督は自分の持っている経験、知識をすべて画面に投入しなければならないと思うんですよ。だから僕は自分の14年間の俳優生活で得たものの、すべてを注ぎ込むつもりです。そして、できあがった作品の程度が低ければ、すなわち僕の得たものが、それだけしかないといわれても、しかたないと思います」そして監督業についての結論は「役者より体力も神経も倍近く使う。しかし、実になる栄養も比べものになりません」と結んだ。〉(「日刊スポーツ」1964年8月24日付)

〈もうすっかり秋色の色濃くなった木曽御岳のふもと、長野県西筑摩郡開田村で約2ヶ月間にわたるロケ生活を送り、三國連太郎からすっかり鍛えあげられたふたりの女優がある。日本プロ第1作『台風』(三國連太郎監督)で、主演グループに抜擢された岩本多代(新人会)と志村妙子(俳優座養成所)だが、ふたりとも7月19日、同地でのロケ開始とともに現場入りして熱心に役づくりに専念している。三國監督は「やはり二ヶ月間、村での生活を送ると、顔の焼け方からセリフのニュアンスまで農村女性の生活感がよく出てきました。その成果は画面に、よくにじみ出ています」と語っている。〉(「日刊スポーツ」1964年9月11日付)